本と写真と珈琲が好き

書きたいこと、写真に残したいもの。思いつくまま、気の向くままに。

最近の(どーでもいい)日記

どうも最近不整脈っぽい。いや、不整脈っていうのがどういう状態なのかよくわかっていないのだけど、息を長く吐いたり強く吐いたり声を出したりすると鼓動が乱れる感じがして、その拍子に軽い咳が出る。鼓動が乱れると咳が出るなんて、初めて知った。ネットで見るとなるほどそういう話も出てくる。

なんでこんなことになったのか。もともと心臓は強いほうじゃないと思うが、思い当たるのが食事をよく抜くようになったことだ。朝食べなかったり、朝以外を一食抜いたり。小食は体にいいとよく言われる昨今だから、空腹の時間を作ることは体にいいと思っていた。しかし、心臓というのは、ある種の栄養素が不足すると機能が低下するのではないかと思う。そのことを身をもって知った。

もうひとつは、カフェインの過剰摂取。コーヒーは一日に何杯でも飲めてしまうくらいコーヒー好きだが、どうも調べてみると、不整脈にはあまり良くない飲み物らしい。

特定の栄養不足と、コーヒーの飲み過ぎ。これに夏の疲れがたたったというのが自分なりの診断だ。本当は病院へ行った方がいいんだろうけど、それはお金がないからパス。なんて言ってるうちに死んでしまったらシャレにならないんだけど、それほど深刻なわけでないことは自分の体の感覚から何となく分かる。別に、苦しいわけでも痛いわけでもないのだ。

最近はほとんど気にならない程度になりつつあるけど、さすがにもう若くはないからいろいろ気をつけないとだめだね。

 

ふたつめ。

時間があればついどこかに出かける方向にいってしまうのは、最近の悪い癖だ。何かにじっくりと取り組むということがほとんどできていない。

若いころって、何かの勉強に打ち込んだり、割とひとつのことにじっくりと取り組むことができた。受験勉強なんてその最たるものだ。今はそれができない。ような気がする。

たとえば今の政治情勢にはとても不満があるが、かといって自分で徹底的に勉強してやろうというところまでは行っていないし、そもそもどうやって勉強するんだろうとか思うし、専門書を読みあさるほどの気力もないし、せいぜいネットに上がってくる情報を見るだけだ。勉強するということと、情報を集めることとは違う。差し迫った問題であるマイナンバーについてだって、ネットで調べにいくのすら億劫だ。世の中にはすごい人がたくさんいて、自分からいろいろな情報にアクセスしてよくぞここまでということまで調べ上げてしまうが、自分はとうていそういう風にはなれそうもない。

文章だって、もっともっとコンスタントに書いたらいいと思うのだが、書いてはしばらく休み、書いてはしばらく休み、の繰り返し。

とにかく、暇さえあればこれをやる、的なことが欲しいのである。それがお金のかからない活動であるならなおのこといい。

そういえば、この前好きなカフェの店主に「コーヒー検定」という資格のこと聞いて、ちょっと興味を持っている。まあ、◯◯検定なんて誰かが金儲けするためのシステムなんだろうけどさ。

 

みっつめ。

「好き」ということについて最近思うこと。

これについては、自分ではうまく言えないので、人の言葉を借りることにする。舞城王太郎阿修羅ガール』より引用。

(以下引用)

あのねアイコ。好きな人の名前を訊かれてクエスチョンマーク付きで答えてるうちはぜんぶ間違いなのよ。愛ってのは迷わないものなのよ。絶対正解で間違いとは無縁のものなのよ。誰々君のことが好きなのかしら?なんてふうには考えないものなのよ。好きな相手が誰かなんて、答えは唯一無二でこの世で一番明らかなのよ。

(中略)

「好き」って何?って疑問は無意味。

どういう意味?

「好き」は「好き」だけ。理由はないの。側面もないの。「ここが好き」「こういうところが好き」とかは言えるけど「ここがあるから好き」「こういうところがあるから好き」というふうには言えないの。

何それ。意味判んない。

上手く言えないだけよ。意味は判るでしょ。

うん、判る。

(中略)

でも多分きっと、人が人を好きになるときは、相手のこことかそことかこういうところとかああいうところとかそんな感じとかそういうふうなとことかが好きになるんじゃなくて、相手の中の真ん中の芯の、何かその人の持ってる核みたいなところを無条件で好きになるんだろうと思う。私もだから、陽治のその核のことが、胸の裏に貼り付いて離れない。

(引用終わり)

 

好きでもない男とやっちゃって後悔するというしょーもない場面から始まるこの小説を本当に真剣に読み出したのは、おそらくこのくだりを読んでからだと思う。なぜかこの部分が強く心をとらえて離さなかった。そうそう好きになるってこういうこと。

好きな人の名前を訊かれて0.5秒で答えられるということは幸せなことだ。「好き」というのはたぶんそういうこと。一生の間に、そう何度もあることじゃない。

おせじにも美品とはいえないその文庫本は、薄汚れてボロボロだけど、今もこれからも手放す気は全くない。

 

満月BAR終了 & 焼き肉打ち上げ

 緑道ウェディングと満月BARがついに終了しました。

 大盛況、そして大成功。それと同時に、夏も終わりました。今日は、長雨につつまれる旭川で、暗い部屋に閉じこもりながらこれを書いています。

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 とても素敵な結婚式でした。業者がプロデュースするのでない、手作りでしかもおしゃれな結婚式。お金もほとんどかからないのがいい。正装で来さえすれば、誰でも1000円の会費で乾杯用のドリンクを受け取り、参加できる。いろんな人の善意と無償の努力はあったけれど、誰の負担にもならない、しかも新しい形の結婚式でした。会場に張り巡らされたタルチョがとてもかわいい。

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 自分もレトロハウスのメンバーとして参加。レトロハウスメンバーは、今回フード班を担当。僕がしたのはピザの生地を練ったことだけで、あとはひたすら会場の写真撮影。調理と給仕は若手が頑張ってくれました。しかし、最近はこの顔ぶれの中にすっかりとけこんでいる43歳。自分はいったいどういう存在なんだろう。お父さん?・・・なわけないな、精神年齢低いし。

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 岡山からおいしいフルーツを送っていただき、フルーツをふんだんに使ったメニューが並ぶ。桃いっぱいのケーキなんて見たことない。ちなみに中はチョコレートケーキ。ちょっとしか食べれなかったけど、おいしかったです。満月BARのフードメニューにあった桃モッツァレラもどんな味がするのか食べてみたかったな。

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 旭川で第一回開催記念ということで、もともと満月BARを行っていた岡山とスカイプで中継し合い、スクリーンを通じて同時乾杯をしました。岡山の満月BAR代表の武田さんとスクリーン越しに再会を果たしました。岡山で前回の満月BARに一緒に行った友人の顔が見れるかもとちょっとだけ期待しましたが、残念ながらそれは叶わず。

 乾杯の音頭をとったのは、絵本『あらしのよるに』の著者である、あべ弘士さん。NPO法人かわうそ倶楽部(ギャラリープルプル)の理事長です。スクリーンの向こうで、岡山の人たちも乾杯しています。旭川から送られた富良野ワインで。

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 人が集まって、人が動いて、そして場ができる、にぎわいができる。まちの活気になる。そんなモデルケースとしてこのイベントはとても大きな成功をおさめたのではないでしょうか。みんながいきいきしてたし、自分の意志で動いていたし。そんな中に運営側として参加できたのは本当に幸せでした。

 もういいかげん寒くなりかけていた旭川も、この日だけはとても気持ちのいい陽気で、暑くもなく寒くもなく、最高の風に包まれました。新郎新婦は一生忘れられないでしょうね。でもハレの国である岡山は逆に、終始小雨だったとか。

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 そしてその二日後、ホルモン店「炭や」で、レトロハウスの満月BAR打ち上げ。ギャラリープルプルからNさんとIさんもまじえて。

 実は収益がけっこう上がったのです。そのお金でみんなで焼き肉を食べようということになりました。焼き肉なんて、超ひさしぶり。おまけに、収益金をひとり頭3000円バックされました。たとえどんなに小額だって、好きなことをして得られるお金というのは格別です。会社に勤めてもらうお金とは重みが全然ちがうもの。

 

 6時半に宿に集合して、みんなでチャリンコで繁華街へ向かう。うたくんが作ったサドル激高自転車によーへーくんが乗って、みんなで大ウケしながら、通行人の注目浴びまくりながら炭やへ。

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 「炭や」は狭い路地を入っていく店だが、いつの間にかぽっかりと屋外席のスペースができていた。夜もまだあたたかいから、外で食べる焼き肉は気持ちがいい。ビールもおいしい!そして楽しい!めずらしくお腹も苦しくならず、あっというまの楽しい時間。余った九千円で二次会。ちょっと歌ってちょっと飲んで、きっかり九千円で終了!なんてさわやかな終わり方。

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  というわけで、ほんとに満足な週末でした。

 いよいよ9月。イベント目白押しな季節は終わって、ちょっとはお金も稼がないとね。でも、もうちょっとだけ暖かい季節でいてほしいです。

 

セレンディピティという言葉

二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を読んでいる。

 

女性向けの本だし、正直ふだんあまり読むジャンルの本ではない。

しかし、話題本だと思って軽く見ていると、いい意味で裏切られる本だ。

読んでみると、「セックス」とか「ヤリチン」とかいう言葉が頻繁に出てくる。それもそのはず、この本は文庫本だが、単行本で出版されたときのタイトルは『恋とセックスで幸せになる秘密』である。昔だったら、恥ずかしくて絶対読まなかっただろうし、そもそもタイトルに抵抗を感じて買わなかっただろう。

 

読んでみると最初、うーん、まあよくある本だね、買うまでもなかったかな、という印象を受けたが、読み進めるうち、なかなか哲学的な深さを持つ文章もあったので、以下に少し引用してみる。セレンディピティ」。よく聞く言葉だが、その意味はよくわからないまま、今の今まで聞き流していたような気がする。Wikipediaによれば、セレンディピティとは「何かを探しているときに、探しているものとは別の価値のあるものを見つける能力、才能を指す言葉」だそうである。

 

(以下引用)

 

自分の「未来」を忘れてみる

 

 みんな「未来」という言葉に、縛られすぎているんじゃないでしょうか。

 未来というのは、そこで何が起こるかわからないから「未来」なのです。

「何歳までに、こうなっていたい」「何歳までにこうなっていなければならない」「クリスマスまでに彼氏が欲しい」というのはそれは未来じゃなくて、予定か強迫観念です。

 

「あなたの夢を実現し、すばらしい未来にするのは、あなたの努力次第」なんて言葉はたいてい宣伝です。「恋が女をキレイにする」の女性誌と同じ。

 あなたがナルシシズムを刺激され、追いつめられて、自分の未来のために「努力」することで、どこかの会社が儲かるようになっているのです。

 あるいは「親の呪い」もあるでしょう。親や世間が言うとおりのことを、するか、それに逆らうか。そのどちらかのために多くの人は「努力」しています。

 そして理想の未来がうまく実現できないと、ヘコんで、自己受容できなくなってしまう。

 

 自分で「私は運がいい」「人生、快調」と本気で思えている人は、いま目の前で起きていることを楽しめて面白がれる人です。計画した未来ではなく、現在の「起きた出来事」の中に、幸せや新しい価値を発見する能力を持っている、ともいえます。

 そういう能力や感覚のことを「セレンディピティserendipity」といいます。

(中略)

 恋愛でいうと「あの人と結婚したい」とか「この恋を叶えたい」とか「この関係を長続きさせたい」といった未来への希望や不安に夢中になってしまい、おたがいの関係や相手の姿の「今」が、よく見えなくなってしまうのです。

 もちろん未来の予定をまったく立てないで、すべて「いきあたりばったり」に行動することは、できません。

 でも、生きていれば「予定どおり」「計算どおり」にいかないことは起こります。

 その時に、何が起きても「悪いことが起こった」とは思わずに、つねに事態を良いほうにとらえて、味わって、それが自分に与えてくれる意味を感じ、受け入れる。

 その方が物事はうまく進んでいくのです。

 

(引用終わり)

 

納得。納得すぎる。

今を十分に味わい、楽しんだ結果として、未来がある。最近よく考えること。

これはほとんど、禅の境地。

これの少し前の章で「感情は、考えないで感じきる」とあったが、これはまさに『エブリデイ禅』の中で著者のシャーロット・浄光・ベックが言っていることとぴったり重なる。「感情の炎に、水もかけず、かといって新しい燃料もくべず、湧きあがってくるものがおさまるまで感じきる」。感情に任せてネット上で言葉を書きなぐることもせず、かといって聖人のような言葉で、ネガティブな感情をまるでその初めからなかったかのようにもしない。それはきっと正しい。

 

話を戻す。

「未来への希望や不安に夢中になってしまい、おたがいの関係や相手の姿の『今』が、よく見えなくなってしまう」のはよくあることだ。

僕に恋愛を語る資格はほとんどないのだけれど、ある歳ぐらいから、誰かを好きになってもそこから焦ってどうこうしようと思わないようになった。

自信がなくて逃げているというのももちろんあるだろうし、そこは否定しない。でも、それだけじゃなく、「今」を不完全なものとか「途上」として否定したくないからだ。

自然に関係が進展するならばそれもよし、どうにもならないにしたって、時おり胸にじんわりくる気持ちや、不安や焦りや嫉妬やコンプレックスもぜんぶ含めて、今しか味わえない気持ちを前向きなエネルギーに転換してやればいいじゃないかと。

で、結局どうにもならずに終わるわけだけど。でも、それが無駄だったとは思わない。

 

ともあれ、最近では自分にもセレンディピティというものが理解できるようになってきた。

お金がなさ過ぎて時々本当に焦るけれど、今は無形の財産に恵まれていることが実感できて、そのうちどうにかなるだろうという気がしている。不運なことはときどきあるけど、それも何かいい意味があるのではないかと、自然に思える思考パターンがいつのまにか身についた。

 

二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』。おもに恋愛の話を中心に語っていますが、全体を通したテーマは「自己受容」です。

自分自身まだ読んでいる途中で言うのもなんですが、一読の価値あり、かと。

「自分の書いたこと」=「自分」ではない

自分が本当にこう思っていると思って書いたことが、次の日には急に恥ずかしくなったり、いやそれはちょっと違うんじゃないかと思ったりする。

理想に燃えて書いたことでも、すぐ後で、何お花畑みたいなこと言ってるんだ?とか思ったり。

ある事実を知る前と知った後で、180度考えが変わったり。

正直、そんなことばっかりだ。

 

書いているときに自分がどんな状態にあるかによっても、書く内容はまったく違ってくる。

例えば、仕事をしているときに書いたものと、仕事をしてないときに書いたものは全然違う。

幸せな気分のときに書いたものと、落ち込んでいるときに書いたものは全然違う。

体調のいいときに書いたものと、体調の悪いときに書いたものは全然違う。

書いたものとは、書いた時自分がどういう状態にあったかという証でもある。

 

それでもやっぱり、書いていたい、と思う。

それがどんなガラクタであっても、ゴミであっても。

できるだけ、どうしようもない自分を余すところなく正確に表現していたいと思う。

 

僕は、自分が人にいい印象を与えるために書こうとは思わない。

むしろ、どうしようもない自分をどこまで人が受容してくれるか試してみたいと思う。

もっと恥ずかしい自分を、もっと正確に大胆に描写できるようになりたいと思う。今でもまだまだブレーキが利きすぎていて、もどかしいくらいだ。

別に投げやりになっているわけじゃない。それでも最後に残る純度の高いものがもしあるなら、見てみたいだけ。

 

自分が好かれたり尊敬されたりするなんて、夢にも思わない。

だから、たまにそういうことを言われると、戸惑ってしまう。

 

こうやって書いたことも、すぐまた恥ずかしくなるのはわかりきっている。

それでも、消さない。

たとえ一瞬であれ、そう考えたことには間違いないのだから。

誰にも読まれないことを祈りながら、誰かが読んでくれることを願っている、矛盾だらけの心。

固定した自分なんてどこにもいない。アメーバのようなもの。

それでいいと思っている。

 

どこまでも自分に正直に書くことは、リスクも多いが、メリットもある。

ニートの歩き方』の著者であるphaさんは、ブログに「だるい」とか「仕事したくない」とか書き続けて共感者を増やし、本の出版にまで至った。

正直でいると、去る人はもちろん去る。しかし、その分味方も増えるだろう。

自分に嘘をついて維持する人間関係にしがみついても、きっといいことなんてない。

うまくいく保証なんて全然ないけれども、その先を信じて、僕はどこまでも正直にいきたいと思う。

好きなことでお金を得るということ

偉大な画家ゴッホが生前に売った絵はわずか1枚で、金額にして400フランだったそうである。
自分の作品をお金に代えるというのは、本当に大変なことだと思う。


僕は自分が好きなことをしてそれがお金になるというのはどうにも信じがたくて、それゆえにそういう努力をほとんどしてこなかった。それはきっと、あまりにも自分の仕事を性急にお金に換えようとする人があまりにもうじゃうじゃいて、ひどいのになるとお金を得ることをまず考えてそこからじゃあ何を提供しようかと逆算する人がいて、全然自分が情熱を感じないものをただ需要があって儲かるという理由だけから提供して、そうやってお金を儲ける人ばかりの世の中にうんざりしていたからだと思う。ハリボテみたいな空っぽなものを無理やり価値があると思わせて売るような人もいる。


自分が情熱を持って続けてきたことは、最後の最後の最後の本当に最後に、認められ、それからまたしばらくしてやっとお金になるものなのだと思う。だってお金のためにやっているんじゃないんだから。そういう報われ方をしている人が世の中に果たしてどれくらいいるんだろうか。


周りの後押しもあり、というのは、評価してくれる人が増えてきたので、僕もそろそろ、ちょっとぐらいは自分の能力を信じてみてもいいのではないかと思っている。というわけでストックフォトというものを恐る恐る始めてみることにした。金額の多寡は問題じゃない。評価されるということがすでに報酬なわけだし。


写真をお金に換える方法をちょっとずつ模索していきたいと思う。

ナマクラ菜園と手抜きガトーショコラ

物事が長続きしないのが、ずっと悩みの種だった。

新しいことを始めることは出来ても、それを続けるのはなかなか難しいことである。

文章しかり、料理しかり、英語の勉強しかり。

 

最近ふと気がついた。

続かないのは、複雑にやりすぎるせいだと。

手順は少なければ少ないほどいい。適当でいい。下手でもいい。

ただしひとつだけ約束。続けること。

 

というわけで、最近はもうなにもかも適当である。

今年二年目の豆畑もそのひとつ。

もともと父親が十年以上家の庭で家庭菜園をやっていて、その一角をほんの少しだけ借りている。幅一メートル、奥行き三メートルほどの、ほんの狭いスペースだ。

 

もともとたったそれだけの広さ。耕すというほど耕しすらしなかった。

土の表面だけを素手で握りつぶして細かくした。

不思議なもので、土を手でいじっていると、なんだかわくわくしてくる。子供のころの記憶なのか、人間の遺伝子にはにはもともとそういう記憶が刻まれているのか。

溝を作るのに小さいショベルを使ったが、等間隔に種を置いて手で土をかぶせた後は、一度水をやったきり。あとは雨が降るのに任せた。

 

それから二十日くらい。豆は立派に育っている。

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手前半分は普通の大豆。奥半分は黒豆の黒千石だ。

大豆は去年の年末に、モケラでのよなよなカフェで、もち子ちゃんからもらったもの。

黒千石は、三年前の上映会イベントで五粒だけもらったものを、去年畑でわずかに増やした。恵庭で「恵子ガーデン」を営む坂本一雄さんのものだ。

小さな粒しかならなかったので発芽するのか疑問だったが、どれもこれもちゃんと発芽してくれた。種の力ってすごい。

 

豆だからというのももちろんあるが、作物というのは自然が、土と太陽が作るものであって、人間が作るものじゃない。人間はただ手を貸すだけだ。そう実感した。

 

そして、最近ガトーショコラをよく作る。

これがまたよく続いている。

料理を続けるコツは、何よりまず人に食べてもらうこと。

そしてやはり、材料と手順は極限まで減らすことだ。

世にあふれるあまたの料理本は、その材料の多さと手順の複雑さで、ほとんど料理アレルギーを増やすことにしか貢献していないように思える。

 

そこで、最近クックパッドで話題になった、材料二つだけのガトーショコラ。

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チョコレートと卵しか使わなくても、これが十分に美味しい。

お金がかからない、手順も簡単、しかもおいしいと言ってもらえる。

 

その代わり、今回材料だけにはこだわってみた。

旭川の隣町比布、大熊養鶏場の「かっぱの健卵」。料理屋さんやお菓子屋さんにも評判の卵だ。

地元の美味しい食材で作るガトーショコラ。お味はいかがだっただろうか?

ちなみに今回、私は型にくっついたカスしか食べていない。

 

世の中は、放っておくと、何事も複雑化する方に進む。

しかし、やらなくて済むことは、本来やらない方がいいのである。

資源だって、使わなくて済むものなら、なるべく使わない方がいい。

シンプル、シンプル、シンプル。H・D・ソローだって、そう言っている。

 

大事なことはひとつだけ。続けることだ。

続けていれば、否が応でも上達する。

てなわけで、私は今日も、ナマクラ哲学を貫いてゆくのである。

 

今日は文章もいつになくナマクラに書いてみた。

大事なのは続けることだから。

 

 

しむかっぷ山菜市2日目

翌朝は、予報通りではあったがあいにくの雨。山菜市の準備は、雨の中。時折傘をささなきゃいけないくらい雨脚が強くなった。

山菜市は、道の駅の道路に面した部分にほぼ端から端まで並べて出店される。テントの設営したり、倉庫からテーブルを出したり、椅子を設置したり。それから各自のお店の準備に取りかかる。

 

われわれコーヒー班も準備に取りかかった。夕べのうちに作っておこうと思った水出しコーヒーを朝になって作ったり(昨夜は時間切れで調理場から閉め出されてしまった)、お湯はやかん一個じゃ足りないだろうと、調理場でお湯を沸かして保温ポットで運んできたり、直前になってバタバタと忙しい。おまけに雨。

電気を使わず炭でお湯を沸かすというコンセプトはいいのだが、お茶とコーヒーを提供するのにやかん一個とは、いくらなんでも見通し甘すぎだろう。しかも、コーヒーの淹れ方を知っているのがなんと私ひとりだった。(どゆこと!?)

まあ、いろいろありつつも、なんとか始めることができた。しかし、借りてきたドリッパーがいつも自分が使っているコーノの円錐形と違い、カリタの三つ穴だ。お湯が落ちるのが早くて、なかなか濃くならない。そんなわけで、なかなか調子がつかめなかった。お金をもらっている以上、ちゃんとしたものを提供したかったのだが、残念ながら何杯か薄いのを提供してしまったのが心残りだ。

 

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もちろん自分が楽しむのも忘れない。お昼ご飯は、鹿肉のカレーライス。おいしい!

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よもぎのパンケーキは、あんことクリームをたっぷり盛ってくれた。これに夕べ苦行のように切ったよもぎが入っていると思うと、なかなか感慨深いものがある。

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ワイルド山菜天ぷら。山菜五種類をその場で揚げる!山菜市の目玉と言ってもいいだろう。

これは食べなかったが、前の日にも天ぷら食べたことだし、まあいいか。

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これはやまべだったかな。こういう串刺しの魚は、子供の頃よくマンガとかで見てあこがれたものだ。一口食べさせてもらったが、絶品だった。

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山菜市だから、もちろん山菜だって売っている。この青々としたウド!

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謎のゆるキャラ。「しむかっぴ〜」とか言ってたな。そのまんまやんけ。どう見ても猫だが、占冠と猫の関係性がいまいちわからない。

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会場でずっとアコーディオンを弾いてくれていたおじさん。いい雰囲気を醸し出してくれました。アコーディオンを弾き始めたのはわりと最近なんだとか。へえ〜って感じ。勇気の出る話をありがとうございます。

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ずっと気になってた、ギョウジャニンニク入りジェノベーゼ。自分じゃ買わなかったけど、少し食べさせてもらった。おいしい〜!

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コーヒー売り場はエゾロックチャンミンさん(注:本名ではありません)も手伝ってくれたのだが、淹れたてのコーヒーの味に感動してくれた。「今まで飲んでたのはなんだったんだろう?」って、スーパーの袋詰めで売っているやつは、ありゃコーヒーじゃありません。本物の味を知ってくれたのは嬉しい。

ついでに、豆を挽くのに使っていたクラシカルなミルも気に入ってくれたらしい。カリタのダイヤミルというやつで、後から知った話では、今は受注生産のみだそうである。ちょっと時間はかかるけど、女性の力でも楽に挽けるすぐれものだ。ちなみに、雨竜の豆電球というリサイクルショップでこのダイヤミルが売っていたが、それは内緒にしておくことにする(全然内緒じゃないし)。

最後にコーヒーを飲みながら、「待つっていいですね」とひとこと。そうだね、たしかにそうだ。

 

他のお店は三時をを過ぎると、もうバタバタと片付けを始めた。われわれも四時には片付け、撤収の準備。近くの村民食堂で打ち上げがあるというので、少しだけ参加させていただくことにした。

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打ち上げでも、山菜をはじめ、またしてもおいしいものが次々と。中でも、ミートパイというものを初めて食べたのだが、これがまたおいしかった!肉とパイの組み合わせなんて、自分の中ではかなり斬新。

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最後に記念撮影。こういうみんなが幸せそうな写真を撮るのは本当に好き。自分の写真は嫌いっていうのも、ときには都合が良かったりする。

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そして家路へ。

みなさん大変おつかれさまでした。