本と写真と珈琲が好き

書きたいこと、写真に残したいもの。思いつくまま、気の向くままに。

エブリデイ禅

毎朝坐禅をした後、読書をする。そのときに必ず一編ずつ読んでいる本がある。

シャーロット・浄光・ベック『エブリデイ禅』。アメリカで20年以上のロングセラーとなっている禅の本だ。この本は、『坐禅ガール』という小説を読んだときに、著者の田口ランディさんがすすめていたことで知った。税抜きで2800円。決して安い本ではない。

アメリカで出版された禅の本というのは、アメリカ人のライフスタイルに合わせてカスタマイズされたものが多く、だからこそ、生粋の日本禅よりも、むしろ現代の日本人にしっくりくるような気がする。この本は、今まで読んだ禅の本の中で一番自分に合うし、一番好きな本である。この本を読むことで、肩肘はって「悟ろう」なんていう気持ちはすっかりはがれ落ちてしまった。現在2回通読が終わって、3回目に入っている(だったか、ひょっとすると4回目だったかもしれない)。何度繰り返し読んでも飽きることはないだろう。

 

さて、いい本は読むたびに引用して誰かに教えたい部分が出てきて困っている。

いつかブックカフェができたらいいなと思っているのだが、その理由は、来てくれた人にある本の一節を読ませて、「こんないいことが書いてあるよ」「こんな言葉ってどう?」と相手に見せ、感動を共有したいためである。しかも、その人ならきっとこういう言葉が好きだろう思うものを慎重に選んで。

本当は本をプレゼントしてあげられれば一番いいのだが、いかんせん自分はそんなにお金持ちではないし、貸したら貸したでちゃんと返さない人がたまにいるので、不愉快な思いをしないために現在は基本的に本は貸さないことにしている。

 

本当は自分で文章を書くよりも、本からの引用を毎日していたいくらいだ。その方がよほどすばらしい言葉をたくさん伝えることができる。著作権というものがあるから、なかなかそうもできないのが不自由なところだけど。

で、今朝読んだ部分から、今日はひさしぶりに本の引用をしてみたいと思う。

 

(以下引用)

参禅者 どうして知っているのですか?

浄光 何を知っているということですか?

参禅者 これらのすべてを?

浄光 知っているとは言いません。何年も座っている経験からすれば、明らかです。それを信じろとは言いません。ここにいる誰にも、私が話していることを信じてほしくはありません。自分で経験を活かしてほしいのです。そして、自分にとって何が真実であるかを知ってほしいのです。ところで、私が話したことについての特別な質問とは何ですか?

参禅者 あなたの言ったことを信じようとしているということです。

浄光 でも、私はあなたに信じてほしいとは思いません。修行をしてほしいのです。私たちは自分の人生に取り組む科学者のようです。もし観察が鋭ければ、その実験が有効であったかどうかわかります。もし人生と取り組んで、上部構造が明るみに出されれば、そのとき自分自身を知ります。ある宗教は、ただ「信じなさい」と言います。信じることは、ここでしていることの重要な部分ではありません。誰も私を信じてほしくはないのです。しかし、修行にはあなたを傷つけるものは何もありませんし、私が言ったことで、あなたを害するものは何もありません。

(引用終わり)

 

宗教であれ、本であれ、セミナーであれ、何かを「信じなさい」と言ったり、あるいは暗にそうほのめかすものを、僕は絶対に信用しない。むしろ全速力で逃げ出す。何かを信じることが宗教なのだとしたら、僕は宗教というものを完全に否定したいと思う。そういう意味では、禅は厳密な意味での宗教ではないのではないかと思っている。

誰かカリスマのような存在を持つのは、成熟していない段階で一時的に必要とするのはいい。しかし、いずれ卒業しなくてはならないものだと思っている。

 

読書もそう。ある本やある著者に全面的に自分をあずけるような読み方は危険だと思っている。だから、なるべくいろいろなジャンルの、いろいろな人の、いろいろな形式の本を意識的に読むのがいいと思っている。

 

僕がここで書いていることだって、誰かに信じてほしいとは思っていない。あくまでひとつのバカなサンプルである。なにせ書いた本人が、書いた先から「それはちょっとどうなんだ?」と疑っているようなことばかりなのだから。

 

というようなことも、最近よく感じることの一つである。