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本と写真と珈琲が好き

書きたいこと、写真に残したいもの。思いつくまま、気の向くままに。

「私は何もしていない」と言えるようになりたい

せっかくなので、引き続き『エブリデイ禅』から少し引用しようと思う。

222ページ「志と期待」より抜粋。

 

「私たちは、安らぎと満足を見出すために禅のような修行をしているのですが、何をしようとしているのでしょうか?人は日常的に、同じ習慣を繰り返していますが、自分の修行もその習慣の中に組み入れようとします。たとえば、『今度の接心では、いくつの公案をパスすることができるのだろうか』『私は彼女よりも長く座っているけど、彼女の方がもっと早く進歩しているように見えるわ』『昨日の坐禅はとても素晴らしかったが、今日もそうだといいけれど』と考えて、次々に目標を掲げ、それを追いかけていくという習癖は生涯、続いていきます。いずれにしても、修行に対する取り組みは、何かを達成するための闘いと、同一のものをベースにしています。それは仲間に認めてもらうことだったり、禅の世界で頭角を現すことだったり、安全な隠れ場を探すことだったりしますが、人はつねに同じことをしているのです」

 

「それぞれの瞬間は、あるがままで完全です。これを知れば、瞬間、瞬間に何が生じてこようが、起こるがままにしておくことができます。自分の今の瞬間はどうでしょうか?幸せを感じていますか?不安におののいていませんか?楽しんでいますか?失望していませんか?人生は紆余曲折ですが、それぞれの瞬間は、まさしくそれぞれの瞬間なのです。私たちの修行や志は、その瞬間と共に在ることであり、何であれ、『あるがまま』でいることです。もし恐れがあれば、ただその恐怖と共に在ることで、まさにその場で恐れはなくなるのです」

 

「私たちは何かを成し遂げるために、つねに必死でどこかへたどり着こうとしているので、誰かがただ立っているだけで何もしていないということを思いつくのはとても難しいのです。今のこの瞬間の外へ移動することはできないのに、人はたえずそうしようとしています。そして、禅の修行にも同じ態度を持ち込んでくるのです。『私は仏性が外のどこかにあるのを知っています。もし熱心に探し、熱心に座るならば、ゆくゆくはそれを見つけることができるはずだ!』と。けれども、仏性を知るためにはそれらをすべて捨て、完全に瞬間、瞬間に存在しなければならないのです。そうなれば、羊を探したり、友人を待っていたり、瞑想をしていたり、どんな活動に従事していようとも、人は何もすることなく、まさに「今・ここ」の瞬間にいるのです。修行をすれば心が静まり、智慧や素晴らしい悟りが得られるだろうと考えているならば、人はあるがままのそれぞれの瞬間が、絶対真理の表れであることを理解しないでしょう」

 

「私たちは、仕事が終わって疲れているときは疲れているブッダであり、坐禅をして足が痛んでいれば痛んでいるブッダであり、自分のある面を見て失望すれば失望しているブッダです。それでよいのです」