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本と写真と珈琲が好き

書きたいこと、写真に残したいもの。思いつくまま、気の向くままに。

小さく説くということ

まずは、『村上春樹雑文集』(村上春樹著)内に収録の「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」から少し引用する。

 

(以下引用)

小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。

なぜ小説家は多くを観察しなくてはならないのか?多くの正しい観察のないところに多くの正しい描写はありえないからだーーたとえ奄美の黒兎の観察を通してボウリング・ボールの描写をすることになるとしても。それでは、なぜわずかしか判断を下さないのか?最終的な判断を下すのは常に読者であって、作者ではないからだ。小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅力的なかたちにして読者にそっと(べつに暴力的にでもいいのだけど)手渡すことにある。

おそらくご存じだとは思うけれど、小説家が(面倒がって、あるいは単に自己顕示のために)その権利を読者に委ねることなく、自分であれこれものごとの判断を下し始めると、小説はまずつまらなくなる。深みがなくなり、言葉が自然な輝きを失い、物語がうまく動かなくなる。

良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ。

(引用終わり)

 

なぜこの文章が気になってしまったかといえば、自分の文章がまさに判断ばかりを繰り返している気がするからだ。僕は小説を書いているわけではないが、事実の描写を淡々と積み上げ、判断は読んでいる者に委ねるという書き方がもっとできるようになれればいいと思っている。そして、それがブログを始めた理由の一つでもある。きっと、自分が提示した問いに自分で答えることばかりしていれば、読む者はいつかうんざりしてしまうだろう。

観察するということを大事にしたい。文章を書くときも、写真を撮るときも、絵を描くときも。絵はまだ苦手意識が消えないが、いつか描けるようになるまであきらめたくない。

 

もう一つ別の本からも引用する。

ブレンダ・ウェランド『本当の自分を見つける文章術』(If You Want to Write)より。

 

(以下引用)

登場人物は読者の想像力の中ではじめて生命をもちます。だから、彼らがどんな風に見え、何をするかを客観的に、正確に書けばそれでいいのです。もし彼らが魅力的で愛すべき存在なら、それはおのずと表われます。読者はそれを信じます。もしファシズムは恐ろしいものだと言いたいとすれば、それを証明するような小説を書いてはなりません。そんなことをすればたちまち読者は感じ取ります。「登場人物は存在感がない。ただファシズムは恐ろしいということを押し付けようとして会話しているだけだ」と。

そのためなら、小説を書くより、ファシズムはなぜ恐ろしいかを正面から論じる誠実な論文を書いた方がはるかに効果的です。というのは、小説は(貧困なり道徳なりについて)問いは投げかけますが、答える必要はないからです。あなたが答えたとたん、読者はそこに嘘をかぎつけます。つまり何かを証明するために登場人物を使っているのだと考えるのです。

(引用終わり)

 

小説とは「小さく説く」もの。

小説を書きたいわけではないし、そもそも無理だとしても、小説を書くような気持ちで、誠実にていねいに文章をつむいでいけたらなと思う。