失敗と上書き
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
こんなふうに生きられたらいいねって思うけど、なかなかそうもいかない。
危なくなれば、傷つきそうになれば、余裕がなくなれば、ドタンバで真っ先に自分を守ってしまうのが、人間。
そのために自分に有利になるような選択をしたり、公平な解釈ができなくなったりする。
これを書いた宮沢賢治自身だって、きっとそんな失敗を数限りなくしただろうと想像する。
失敗は尽きない。
失敗するたびに行動は萎縮し、言葉は選び過ぎるようになり(あるいは沈黙し)、 過去の失敗の記憶を引っ張り出しては反芻し、煩悶する。
消したくなる願望、リセットしたい衝動、あのときに戻ってあの選択を取り消したいという思い。
そんなものは、はっきりいって無意味だ。取り消しは効かないんだから。
できるのは、さらなる行動による上書きだけ。
だから、ある程度時間が解決してくれたら、動き出すしかない。
そうでなければ、過去の失敗だって成仏できないだろう。
キャンバスがどんなに汚くなろうが、ただひたすら塗り重ねていく。
それでもどうにもならない致命的な過ちというものもあるが(いや、どうなんだろう?)、何も取り戻せないと分かっていたって、その努力はきっと死ぬ瞬間までやめてはいけないんだろうと思う。
少なくとも自分はそれほどの失敗はしていないのだから、ありがたく思いたい。
近ごろなんとなくそんなことを考えている。