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本と写真と珈琲が好き

書きたいこと、写真に残したいもの。思いつくまま、気の向くままに。

森達也監督作品『FAKE』レビュー

ついでにというか、こちらも載っけておく。

 

1月21日にまちなかぶんか小屋で主催したドキュメンタリー映画『FAKE』上映会にて、会場で配布した解説用小冊子に掲載した文章。まあ、映画通でもない自分が解説というのも超おこがましいが、なかなかどうして、小冊子に載せる文章は毎度評判が良い。

書くのめっちゃ面倒くさいんだけど、それを聞いたときだけちょっといい気分になる。

 

蓋を開けてみれば、来場者175人。

旭川のドキュメンタリー上映会としては上々だ。

 

しかし、この上映会が終わったとたんに、やたらとフェイクニュースという言葉を巷で聞くようになった。時代はフェイクなのか?いやむしろ、フェイクがフェイクであることを隠せない時代になってきたと言うべきか。

 

 

(以下本文)

 佐村河内氏のゴーストライター騒動とはいったい何だったのかーー

作曲家の新垣隆氏が長年にわたってゴーストライターを務めていたと自ら暴露したことで、猛烈な批判にさらされることになった「現代のベートーベン」こと佐村河内守氏。その当時、横目でぼんやりテレビを観ていた私はどう感じていただろうか。そんな問いかけを頭の片隅に置きつつ、一度頭をリセットしてこの『FAKE』を観た。自宅マンションでの密着映像。夫を支える妻や、くつろぐ猫、毎日2リットルの豆乳を飲む食卓風景、来客のたびに出されるケーキ、目の前を電車が通るベランダでの喫煙。どこかあたたかさを覚える日常風景の映像に身をまかせつつ、その間私の気持ちは右に左に大きく揺れ動いた。彼はやはり嘘をついているのか、それとも・・・。

 薄暗い室内でぽつぽつと話し始めた佐村河内氏は、「ゴースト問題ではなく共作問題だと言いたい」と切り出し、事実の一部だけを切り取った偏向報道をするメディアのあり方への憤りを語る。感音性難聴という診断について、森監督が真偽を検証する場面もあり、そこで佐村河内氏が嘘をついているようには見えない。テレビで強調された「威圧的な外観」にしても、実際映画のなかでは意外なほど腰の低い人であった。

 一方、一見誠実そうな態度で出演依頼に来るテレビ局スタッフが映された後、実際にオンエアされる映像の醜悪さが際立つ。森監督は、「マスコミに信念とか思いとかは全然ない」「出る人を使ってどう面白くするかしか考えていない」と言う。そして「いつか佐村河内さんと一緒に謝りたい」としながらもそんな意志はまったく感じられず、バラエティ番組ではしゃぐ新垣隆さんの軽薄さ。取材を申し込むも、事務所から拒否。ここで私は「嘘をついているのは佐村河内氏ではなく、むしろメディアと新垣氏の方」という思いに傾いていた。

 海外メディアの記者が取材に来た場面で、この思いが一転して揺さぶられることになる。日本のメディアとは対照的な、対象に迫る誠実さと厳しさ。的確でまっとうな質問。メディアのあるべき姿を見る思いだったが、質問に対し返答に詰まる佐村河内氏と、取材後の異様な疲れよう。私の中で佐村河内氏への疑いが再燃する。彼はなぜキーボードを捨てたのか。

 そして、森監督からの挑発的な一言によって、場面は「衝撃のラスト12分」へと導かれるが、ここでもまた、私の思いは揺さぶられた。やはり彼へのバッシングは根も葉もないものだったのだ。感動的なラストシーン・・・。ここで終われば完璧だ。だが監督はまたしても、私をそこに安住させないで異化する。エンドロール後の森監督の問いかけと、それに対する佐村河内氏の長い沈黙と逡巡。私をもやもやした気持ちにさせたまま、映像は不意に途切れる。

 後になって、これはしてやられたな、と思った。実はこの迷いの連続こそが、森監督が観客に仕掛けた巧妙なトラップだったのではないだろうか。善か悪か。白か黒か。真か偽か。絶えず判断を下していた私は「本当にあなたはそれでいいの?」と問われている気がした。新垣氏やメディアを悪と決めつけたところで、問題はひとつも解決しない。白と黒をひっくり返すだけではダメなのだ、と。

 

 作家で社会活動家の雨宮処凛氏は、「この国には『みんなでいびり殺してもいいリスト』がある」という。そのリストに登録されたが最後、どんなにもがいても、徹底的なバッシングから逃れる術はない。そして多くの人が、この「悪気のない」無意識のリンチに加担していると。STAP細胞問題での小保方氏へのバッシングなど、実例は枚挙に暇がない(そしてなお現在進行形だ)。こうした問題の根底には、物事を単純な二元化で納得したがる心理がある。それこそが森監督が投げかける現代社会への違和感だ。彼自身の言葉を引用する。

「市場原理によってメディアは社会の合わせ鏡となる。ならばこの傾向は、社会全体が安易な二極化を求め始めているとの見方もできる。社会だけではない。政治もこの二つと相互作用的に存在する。つまりレベルが同じなのだ。もしもこの国のメディアが三流ならば、それは社会が三流であることを意味し、政治も同様であることを示している」

 メディアのあり方は、私たちのあり方でもある。

 白と黒の間には無数のグラデーションがあり、虚偽と真実を明確に分けることはできないとするのが森監督の立場だ。では「公正中立」はありえるのか。「ドキュメンタリーとは表現行為で、公正中立はありえない」と森監督は言う。実際この映画の中では、「あなたを正当化するつもりはない」と宣言しながらも佐村河内氏への加担性が見て取れる。それは彼自身の視点だ。それがなければ、このような映画は撮れなかったであろう。「夫婦の愛の物語でもあると思っています」という監督の言葉におそらく嘘はない。私にとっても、夫を信じて淡々と支え続ける妻の姿は、それを主題にしてもいいと思えるくらい感動的であった。

「様々な解釈と視点があるからこそ、この世界は自由で豊かで素晴らしい」という監督の言葉には、もちろんこの映画を疑うのもあなたの自由だ、という懐の深さを感じる。そうして改めて『FAKE』というタイトルの意味について考えてみた。それが指しているのは果たして佐村河内氏のゴーストライター問題のことなのか、新垣氏や神山氏の嘘のことなのか、マスメディアの不誠実さのことなのか、はたまたこの映画そのもののことなのか。あるいはまた、それらすべてと考えることもできる。それもまた監督の言う「様々な解釈と視点」なのだろう。