バンクシーの言葉
If we wash our hands of the conflict between the powerful and the powerless we side with the powerful -We don't remain neutral.
「強者と弱者の争いから手を引けば、強者の側につくことになる。中立でいることにはならない」
2014年にバンクシー氏がこんな言葉を残していたとは。
映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』を観てからずっと気になっている人だ。
好きな言葉を丸暗記するのも、英語の一つの勉強法じゃないかな。
ネット時代で軽視されがちですけど、記憶することって大事。
創造性ということにおいても、要は組み合わせの豊富さな訳で、結局は記憶の量がものを言うようです。
ネットは記憶する負担を軽減するから、あいた分を創造性に回せるなんて言説は、全くの嘘っぱち。
それは作業記憶の話で、長期記憶に容量制限はない。
むしろ記憶の量が少ないと、引き出せる手持ちの材料が少ないから、その分作業記憶に負担がかかって創造性は低くなると思われる。
なんてエラソーに言う私は決して博識なわけでもないですが。笑
森達也監督作品『FAKE』レビュー
ついでにというか、こちらも載っけておく。
1月21日にまちなかぶんか小屋で主催したドキュメンタリー映画『FAKE』上映会にて、会場で配布した解説用小冊子に掲載した文章。まあ、映画通でもない自分が解説というのも超おこがましいが、なかなかどうして、小冊子に載せる文章は毎度評判が良い。
書くのめっちゃ面倒くさいんだけど、それを聞いたときだけちょっといい気分になる。
蓋を開けてみれば、来場者175人。
旭川のドキュメンタリー上映会としては上々だ。
しかし、この上映会が終わったとたんに、やたらとフェイクニュースという言葉を巷で聞くようになった。時代はフェイクなのか?いやむしろ、フェイクがフェイクであることを隠せない時代になってきたと言うべきか。
(以下本文)
佐村河内氏のゴーストライター騒動とはいったい何だったのかーー
作曲家の新垣隆氏が長年にわたってゴーストライターを務めていたと自ら暴露したことで、猛烈な批判にさらされることになった「現代のベートーベン」こと佐村河内守氏。その当時、横目でぼんやりテレビを観ていた私はどう感じていただろうか。そんな問いかけを頭の片隅に置きつつ、一度頭をリセットしてこの『FAKE』を観た。自宅マンションでの密着映像。夫を支える妻や、くつろぐ猫、毎日2リットルの豆乳を飲む食卓風景、来客のたびに出されるケーキ、目の前を電車が通るベランダでの喫煙。どこかあたたかさを覚える日常風景の映像に身をまかせつつ、その間私の気持ちは右に左に大きく揺れ動いた。彼はやはり嘘をついているのか、それとも・・・。
薄暗い室内でぽつぽつと話し始めた佐村河内氏は、「ゴースト問題ではなく共作問題だと言いたい」と切り出し、事実の一部だけを切り取った偏向報道をするメディアのあり方への憤りを語る。感音性難聴という診断について、森監督が真偽を検証する場面もあり、そこで佐村河内氏が嘘をついているようには見えない。テレビで強調された「威圧的な外観」にしても、実際映画のなかでは意外なほど腰の低い人であった。
一方、一見誠実そうな態度で出演依頼に来るテレビ局スタッフが映された後、実際にオンエアされる映像の醜悪さが際立つ。森監督は、「マスコミに信念とか思いとかは全然ない」「出る人を使ってどう面白くするかしか考えていない」と言う。そして「いつか佐村河内さんと一緒に謝りたい」としながらもそんな意志はまったく感じられず、バラエティ番組ではしゃぐ新垣隆さんの軽薄さ。取材を申し込むも、事務所から拒否。ここで私は「嘘をついているのは佐村河内氏ではなく、むしろメディアと新垣氏の方」という思いに傾いていた。
海外メディアの記者が取材に来た場面で、この思いが一転して揺さぶられることになる。日本のメディアとは対照的な、対象に迫る誠実さと厳しさ。的確でまっとうな質問。メディアのあるべき姿を見る思いだったが、質問に対し返答に詰まる佐村河内氏と、取材後の異様な疲れよう。私の中で佐村河内氏への疑いが再燃する。彼はなぜキーボードを捨てたのか。
そして、森監督からの挑発的な一言によって、場面は「衝撃のラスト12分」へと導かれるが、ここでもまた、私の思いは揺さぶられた。やはり彼へのバッシングは根も葉もないものだったのだ。感動的なラストシーン・・・。ここで終われば完璧だ。だが監督はまたしても、私をそこに安住させないで異化する。エンドロール後の森監督の問いかけと、それに対する佐村河内氏の長い沈黙と逡巡。私をもやもやした気持ちにさせたまま、映像は不意に途切れる。
後になって、これはしてやられたな、と思った。実はこの迷いの連続こそが、森監督が観客に仕掛けた巧妙なトラップだったのではないだろうか。善か悪か。白か黒か。真か偽か。絶えず判断を下していた私は「本当にあなたはそれでいいの?」と問われている気がした。新垣氏やメディアを悪と決めつけたところで、問題はひとつも解決しない。白と黒をひっくり返すだけではダメなのだ、と。
作家で社会活動家の雨宮処凛氏は、「この国には『みんなでいびり殺してもいいリスト』がある」という。そのリストに登録されたが最後、どんなにもがいても、徹底的なバッシングから逃れる術はない。そして多くの人が、この「悪気のない」無意識のリンチに加担していると。STAP細胞問題での小保方氏へのバッシングなど、実例は枚挙に暇がない(そしてなお現在進行形だ)。こうした問題の根底には、物事を単純な二元化で納得したがる心理がある。それこそが森監督が投げかける現代社会への違和感だ。彼自身の言葉を引用する。
「市場原理によってメディアは社会の合わせ鏡となる。ならばこの傾向は、社会全体が安易な二極化を求め始めているとの見方もできる。社会だけではない。政治もこの二つと相互作用的に存在する。つまりレベルが同じなのだ。もしもこの国のメディアが三流ならば、それは社会が三流であることを意味し、政治も同様であることを示している」
メディアのあり方は、私たちのあり方でもある。
白と黒の間には無数のグラデーションがあり、虚偽と真実を明確に分けることはできないとするのが森監督の立場だ。では「公正中立」はありえるのか。「ドキュメンタリーとは表現行為で、公正中立はありえない」と森監督は言う。実際この映画の中では、「あなたを正当化するつもりはない」と宣言しながらも佐村河内氏への加担性が見て取れる。それは彼自身の視点だ。それがなければ、このような映画は撮れなかったであろう。「夫婦の愛の物語でもあると思っています」という監督の言葉におそらく嘘はない。私にとっても、夫を信じて淡々と支え続ける妻の姿は、それを主題にしてもいいと思えるくらい感動的であった。
「様々な解釈と視点があるからこそ、この世界は自由で豊かで素晴らしい」という監督の言葉には、もちろんこの映画を疑うのもあなたの自由だ、という懐の深さを感じる。そうして改めて『FAKE』というタイトルの意味について考えてみた。それが指しているのは果たして佐村河内氏のゴーストライター問題のことなのか、新垣氏や神山氏の嘘のことなのか、マスメディアの不誠実さのことなのか、はたまたこの映画そのもののことなのか。あるいはまた、それらすべてと考えることもできる。それもまた監督の言う「様々な解釈と視点」なのだろう。
「文庫X」レビュー
「逃げ恥」についての考察
TBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』がおととい最終回を迎えた。
今日、TBSオンデマンドでじっくり二回目を観た。
しみじみと、しっくり。
ときどき泣きそうになりながら、やっぱり最後までいいドラマだな、と実感。
言い訳っぽいけど、本当に最近はドラマなんか観ない。
今回観始めたのは、つけていたテレビで第5話の冒頭部分が流れていたのを偶然目にし、まあいつもの安っぽいドラマだろうと高をくくってすぐにスイッチを切ったものの、どうしても気になってあとでネットで観たら、その面白さに引き込まれてしまったという顛末。自分の直感は素直に信じた方がいい。
はっきり言って、変なドラマだったと思う。よくこんなテーマを思いついたものだと。でも同時にそれは、だれもが漠然と感じていながら言語化できなかったもの。そうでなければここまでの人気にはならなかっただろう。原作者の視点や表現力もすごいと思うが、ドラマの仕上がりは原作マンガとはまた違う雰囲気で、演出によってさらに面白くなっている。ムズキュンという言葉で表現されたように、ラブコメとしても十分に面白いが、注目すべきはそのメッセージ性の高さだ。
とりわけ、今の自分が必要とするメッセージがたっぷりとつまっていると感じた。その中でも、特に気になったのは以下の言葉。
「極限までラクをしようとすると、人は死に向かう」
ドキッとした。ここ数年間自分がしてきたことが、この言葉に凝縮されている気がした。生きる上で面倒な行為をいかに省けるか、それを長いこと追求してきた末、絶望的な行き詰まりを迎えていたのが、ここ最近の自分の状況だった。もう先が見えないくらい追いつめられていた。
生きるというのは、めんどくさいこと。
一人で生きるにしても、誰かと生きるにしても。
それに対して、人はどう向き合うべきなのか。たまに逃げることはあっても、めんどくささを退けることなく、どう引き受けていくか。折り合いをつけていくか。ひとことで総括するなら、このドラマはそういうメッセージを伝えていたように思う。
人生はいつだって、必要なものを必要なタイミングで用意してくれるように思える。
少々オカルト的ではあるけれど、その点において人生そのものが信頼できるものだ。
良質な物語、ほんものの言葉に出会えた時、ああ生きていてよかったと思う。
けっして大げさな話ではなく。
免許更新な12月
車の免許証を更新してきた。
毎度のことながら、だらだらと先延ばしにして期限ギリギリになってしまう。誕生日が11月23日だから、期限まであと5日くらいしかない。行く時間がないわけでもないのに。そりゃそうだ。楽しくもないし、めんどくさいし、お金も払いたくないし。行きたくなる要素が全くない。できればなしで済ませたいイベントだ。
そしてこれも毎度感じることだが、何回も更新しているはずなのに、行くたびに手順をほぼすべて忘れている。なので今回は、ひととおりの流れを書いてみることにした。
案内ハガキには、日曜日の午前中は混雑しますと書かれていたので、開場の8時45分にはつけるように行こうと思ったが、結局グズグズしているうちに出発が8時40分くらいになってしまった。近文の試験場までたっぷり20分かそれ以上はかかるだろう。
着いたら、本当に混んでいた。通常の駐車場では車を収容しきれず、普段は試験用のコースに使われている場所が臨時の駐車場になっていて、そこまで誘導された。日曜日の午前中に来たのは初めてだったのでちょっと面食らった。きっとこんなのは毎週ふつうの光景なのだろう。
ええと、まず最初に何をするんだったっけ?もうすっかり忘れているので、適当に職員さんをつかまえて聞く。職員さんも心なしか忙しさにテンパっているように見える。まずは、用紙を交付するのでハガキと免許証を見せてくれと言われた。以下に、全体の流れを書く。
①案内ハガキと旧免許証を提示して、更新申請書を発行してもらう。
②更新料3300円(通常講習)を支払って、証紙をもらう。
割り印が必要だが、印鑑を忘れた場合ペンで署名でもいい。実際印鑑を忘れた。だって、必要なものに入ってなかったし。
③申請書を記入し、裏に証紙を貼り、割り印(署名)。
④視力検査に行く。
これが案外間違えやすく、先に書類を提出しそうになる。なるほど、提出窓口の上に「視力検査はしましたか?」とでっかく書いてある。
⑤書類を提出する。
超行列ができていた。さすが日曜日。でも先の方で4つの窓口に分かれていて、意外とサクサク。
ペンで書くべきところを書いていなかったのか、前にいた男がやり直すよう言われて、イラつきを隠さず職員に捨て台詞。どこにでも必ずいそうな許容量の少ない人。対応する職員もストレスがたまりそうだ。
⑥ロビーで待った後、穴をあけられた旧免許証と案内ハガキを受け取る。
⑦写真撮影
絶対いい写りは期待できないので、ここは観念。ブースは二つあって、それぞれの側の柱に確認用の鏡がかかっている。黄色いマルで囲まれたレンズの中心を見るように指示される。カバンとコートの置き場はちゃんと用意されていた。入ってきた側と反対側に出口がある。写真ブースも、長い行列の割には早く進んだ。
ここまでで手続きは終了。全部終わってもまだ9時半。講習までまだ30分もある。
⑧講習
2階に上がってロビーのイスで待機。ここでも人が多くてびっくりした。缶コーヒーでのんびりしようかと思ったら、まもなく教室への案内が開始される。通常講習は3番教室へ。
講習は10時から11時までの1時間。講師はかなりアクの強いトーンでしゃべるおばさんだった。予備校の講師とかにこんな人いそう。
いつも思うが、どうせこの時しか開かないまっさらな教則本を見て、お金の無駄遣いだなあと内心ため息をつく。どうせ帰ったらゴミ箱へ直行なのに。表紙を補強するなりし、講習の間だけの貸出にして使い回せばいいだろうと思う。この本のために高い更新料を支払っているんだと思ったら、ほんとにバカらしい。裏で潤ってる業者もいるんだろうね、どうせ。
⑨免許証交付
穴のあいた旧免許証と引き換えに、新免許証をもらう。
以上。
たったこれだけのことでも、文章で書くと意外とめんどくさいものだ。
逆に考えると、書くことなんて悩まなくてもたくさんあるってことだ。具体的なことを言葉にするのは、いい文章修行になる。
帰り道は、小雨が降っていた。冬の曇り空と小雨、あまり好きな天気ではない。頭がぼーっとしてくる。
朝は寒いような気がしたが、かなりあたたかかったらしい。冬も中盤に入ってくると寒さへの敏感さも鈍ってくるもので(「どうせ冬は冬だし」という)、体感での気温の判断が曖昧で当てにならなくなってくる。
またひとつ、めんどくさいことが終わった、年の瀬の12月18日。
これだけ書けば、さすがに今度ばかりはすっかり覚えたかな?免許更新の手順。
・・・いや、あやしいな。次は5年後。
前回は違反講習だったので、3年ぶりの免許更新だった。3年なんてあっという間だ。