本と写真と珈琲が好き

書きたいこと、写真に残したいもの。思いつくまま、気の向くままに。

失敗と上書き

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

 

宮沢賢治雨ニモマケズ』でいちばん好きな部分。

 

こんなふうに生きられたらいいねって思うけど、なかなかそうもいかない。

危なくなれば、傷つきそうになれば、余裕がなくなれば、ドタンバで真っ先に自分を守ってしまうのが、人間。

そのために自分に有利になるような選択をしたり、公平な解釈ができなくなったりする。

これを書いた宮沢賢治自身だって、きっとそんな失敗を数限りなくしただろうと想像する。

 

失敗は尽きない。

失敗するたびに行動は萎縮し、言葉は選び過ぎるようになり(あるいは沈黙し)、 過去の失敗の記憶を引っ張り出しては反芻し、煩悶する。

 

消したくなる願望、リセットしたい衝動、あのときに戻ってあの選択を取り消したいという思い。

そんなものは、はっきりいって無意味だ。取り消しは効かないんだから。

 

できるのは、さらなる行動による上書きだけ。

だから、ある程度時間が解決してくれたら、動き出すしかない。

そうでなければ、過去の失敗だって成仏できないだろう。

キャンバスがどんなに汚くなろうが、ただひたすら塗り重ねていく。

 

それでもどうにもならない致命的な過ちというものもあるが(いや、どうなんだろう?)、何も取り戻せないと分かっていたって、その努力はきっと死ぬ瞬間までやめてはいけないんだろうと思う。

少なくとも自分はそれほどの失敗はしていないのだから、ありがたく思いたい。

 

近ごろなんとなくそんなことを考えている。

ネガティブな言葉を並べたってしかたがない

そう、ブログを再開するにあたって、この題名でまず書こうと決めていたのだった。

 

なのに、早速このザマ。

言葉が嘘くさいなんて、つい衝動的に書いてしまう。

いやいや、そんなことない。

言葉の力にいつも助けられているのは、他ならぬ自分自身だ。

 

書く以上は、読んだ人が読んで良かったと思えるものを書くことにしよう。

いつ誰に読まれてもいいようにしておこう。

そんな決意表明を一回書いておくつもりだったのだ。

 

ときにはネガティブなことも書いてしまうかもしれない。

そのときは、それを否定したり消したりしないで、ポジティブな言葉で上書きしていけばいい。

そんなふうに考えることにした。そしたら少しラクになった。

 

どうせ今夜も咳でろくに寝られないことはわかっている。

だからまた布団から起き出して今これを書いている。

 

昨日ある人に言われた「その咳はヤバい」の言葉に、ちょっとドキッとした。

でも以前にもあったんだよな、全く同じ症状が。

ちょうど4年前のちょうど同じ頃。奇しくも同じ閏年

昔小児ぜんそくをやっている身だ。その体質がまだ残っているのかもしれない。

 

そして、甜茶を飲んでみた。花粉症に効くと聞いて、去年の春に買ったものだ。

咳がアレルギー性なら効果があるかと思ったら、特に咳が止まる気配はない。

 

今日はなんと、4回目にして初めてユーザー車検通らず。

シートベルトの警告灯がついていないなんて、全く盲点だった。

いやいや、市役所だの日産のディーラーだの、バタバタ走り回ったり焦ったり。

人と会う約束まであったから余計に。

映画上映会で使う冊子を印刷する予定もあったのに、キャンセルする羽目になるし。

ほんと疲れた。

 

有効期限終了日にユーザー車検受けるなんてクレイジー過ぎると、いまさら悟った。

人生終始そんな感じなんだから、本当にいいかげんさすがにそろそろどうにかしなければと思う。

 

 

言葉って嘘くさくてきらいだ

言葉って嘘くさくてきらいだ。

 

たとえば、いい映画を観たとき、いい本を読んだとき

すぐには言葉なんか出てこない。

何を言ったって、何を書いたって、自分の言葉など陳腐そのものでしかない。

 

それと同じことが、人間相手にも起こる。

相手を本当に尊重したいと思ったとき、相手の深さを想像してしまったとき、

もう言葉なんかひとつも出てこない。というか、出せない。

会うのも困難になる。

出てきた言葉は、出てきた先から、安っぽいものに変質するような気がする。

自分の書いた言葉に自分で煩悶する。

 

そうして、こんな文章ですら、書いた次の瞬間には偽物に変わってしまう。

だから、誰かに読んで欲しいと思いつつも、あまり読まれない場所に書くしかない。

 

頼むから、誰も反応しないで欲しい。読者になんかならないで欲しい。

読むならこっそり読んで欲しい。

好きに書けなくなるから。

再開

しばらく非公開にして凍結していたブログを、今日から再開する。

 

非公開にした理由は、あまりにも表題からかけ離れた内容に漂流してしまったせいだが、単純に書いている内容を人に見られたくなくなったというのがきっと本当の理由だと思う。

 

しかし、そんなことはどうでもいい。

書くための場所というものが、やっぱり自分には必要だ。

ブログを始めて、途中で気に入らなくなってまた新しいブログを立ち上げ それもまた気に入らなくなってまたブログを立ち上げ・・・。

そんなことをいつまでもくり返したって仕方がない。文体だって書く内容だって、そのうちいつか落ち着くところに落ち着くだろう。とにかく書き続けることだ。

 

最近はといえば、いろいろと調子が悪い。

インフルエンザにかかったり(あくまで自己診断だが)、それをきっかけに夜中眠れない日々が続いたり、健康診断で血液中の悪玉コレステロールが異常値を示したり。たいして食べてもいないのになー。

 

これまで、精神的に追いつめられることはあっても、体だけは安泰だと思っていた。歳とったって病気なんかするもんかって思っていた。それがここへきてどうも雲行きが怪しくなってきたのは、足元の地盤が崩れ落ちるような、自分にとっては衝撃的なことだ。

 

もはや、安心なものなんて何ひとつない。

ろくなスキルもない独り者なんて、病気をしてしまえばそれこそ一気に転落人生だろう。

そんなことを考えては、あまり眠れない夜が続いている。

 

とりあえずできること、ということで、今は晩ご飯というものを一切食べないことにした。

不思議なことに、これがまったく苦じゃない。いや、むしろちょうどいいくらい。

いっそのこと、ファスティングは夜ということにしてしまおう。ファスティングは朝というのが一般的だが、朝食べないで仕事に行くという考えはない。だったら当然夜だ。

無理はよくないので、人の付き合いであれば夜でも食べることにする。まあ、あまりないからいいのだけど。

 

そして白湯をたくさん飲む。じじーみたい。

でもこれがいいんだな。便の質があきらかに変わった。

 

それに加えて、今月半ばに車検が控えているので、それが終わるまではなんとなく落ち着かない。

一度もろくな整備をせずに迎える4回目のユーザー車検。そう都合よく受かると楽観もできない。

 

政治が危ないということで、いろいろと活動に参加してもいるのだけど、ここにきてなんかちょっとめんどくさくなってきたり。

自分の靴の紐も結べない人間が、何を大それたことを考えているんだって、時々そんな気分にもなる。

 

ひきこもりたい。

人に会いたくない。

いろんなことを、考えずに済ませたい。

そんな週末。

 

それはともかく。

まあ、そんな感じで(どんな感じだ)また細々と続けていければいいと思う。

文章うまくなりたいな。なにより、早くたくさん書けるようになりたい。

大好き

うちのかわいい姪と甥は、ことあるごとに「大好き」と言う。

正確に言うと「言っていた」かな? まあ、いまでもたまに言うか。ただ、さすがにもう8歳だし、そうしょっちゅうは言わないと思う。

 

なんでこんなに言うようになったかなー、と思う。

ママ大好き!パパ大好き!ばぁば大好き!おじちゃん大好き!

その響きには、一点の迷いもない。こんなふうにまっすぐ言われて、気分よくならない大人がいるわけがない。

 

思い当たるのが、別れ際に「おじちゃん、あめり(姪の名)のこと大好きだから、また遊びに来るよ」と言ったことだ。その後からずいぶんと「大好き」を連発するようになった気がする。いや、もともと言葉を覚えたての頃から「すきー」は言っていたのだ。妹が「ママすきー」とか無理やり言わしていた。「まま、きー」にしか聞こえなかったのがかわいかったが。

やっぱり、「大好き」と頻繁に言うようになったのはあの後からだと記憶している。

 

ひとつかわいいエピソードがあって、家を新築してまもなく、お向かいに住んでいる「ゆあちゃん」という一つ年上の女の子と仲良くなり、遊びに行った帰りのこと。

「ゆあちゃんに大好きって言ってくる!」

と言って、わざわざ引き返して言ってきたそうだ。チョーかわいい。子どもって神様みたいだな。

 

あとは、普通に車に乗っているとき、何の前触れもなく「ママ大好き」と言ってみたり。

 

そして、甥っ子も負けずに言う。だいたいどっちかが始めたことは、もう一方がもれなく真似するものである。双子だし。

 

話はかなり飛躍するが、昔「DAISUKI!」という深夜番組があった。中山秀征とか飯島直子とかが出演してて、(たぶんほぼ東京都内の)さまざまなところに出没してロケを行う番組だった。CM入りする前のアイキャッチにアイドルがカメラに向かって「大好き!」と言うのが印象的だった番組である。

その番組の中でときたま、とある居酒屋でだらだらと日本酒の飲み比べをするという、恒例のコーナーがあった。そのロケ地となっていた店が「やきとり雅」という店で、当時住んでいた西荻窪のアパートから歩いてものの5分という場所にあることを、ずいぶんたってから知った。たしか、いつも行っている銭湯の向かいだったような・・・。まったく盲点だった。まだギリギリ東京に住んでいた頃、遊びに来た兄をその店に連れて行ったことがある。納豆をマヨネーズで和えた、「DAISUKI!納豆」という番組の中で生まれたオリジナルメニューも食べてみた。

 

・・・まあ、どうでもいいエピソードだ。ただの「大好き」つながり。だから何?と言われても、オチはない。

 

ダイスキ。

いい響きですね。

大人になると、おいそれと使う機会はないけどね。

 

ちなみに、岡村靖之の「だいすき」という歌が、今でも大好きだ。ドライブ中にかけると最高。

その歌詞を引用して、今回は終わりにしよう。

ところでJASRACって、こういうところまでうるさく言ってくるのかな?まあいいや。

 

君が大好き あの海辺よりも

大好き 甘いチョコよりも

こんなに大事なことは そうはないよ

 

Oh  君が大好き あの星空より

大好き 赤いワインより

女の子のために 今日は歌うよ

月が綺麗ですね

またくだらぬことを書いてしまった。

 

Facebookより)

スーパームーンとか、福山の結婚なみにどうでもいいんですけど。
感動してるんじゃなくて、情報に踊らされてるだけじゃん。
肉眼で大きさの違いを見破れる人が、果たしてどれだけいるんだろうか。
「月が綺麗ですね」のほうがよほど素敵な言葉だと思うが。これにはまた別の意味があるんだけども。

 

満月の頃になると、必ず何年に一度のなんとかムーンとか言い出すノータリンな輩がいて、つい上のような毒を吐いてしまうんですけど、それはまあどうでもよくて、「月が綺麗ですね」についての話です。

この言葉には、文字通りの意味だけじゃない別の意味が隠されていて、正解を言ってしまうと、I love youの訳語なのですね。これは、以下のような逸話がもとになっています。

 

(ネットより転載)

小説家・夏目漱石が英語教師をしていたとき、生徒が " I love you " の一文を「我君を愛す」と訳したのを聞き、「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい」と言ったとされる逸話から。遠回しな告白の言葉として使われる。

 

真偽のほどは定かでない、都市伝説のような話らしいですが、なんともいい話です。その訳された文章というのはどんなシチュエーションだったのでしょうか?おそらく二人で月を見ていたんでしょうね。「月が綺麗ですね」と言うことで気持ちを伝えるなんていうのは、伝えられる側にも同じくらいの感受性が要求されるわけで、おそらく日本人にしかできない芸当なんじゃないでしょうか。夫婦が末永く円満でいるための秘訣はお互いの顔を見るのでなく、共通の何かを一緒に見ることだなんて話を昔テレビで誰かが言っているのを聞いたことがありますが、なんだかそれにも通じる話のような気がします。

 

たぶん、根拠はないですけど、欧米人にとってのI love youって日本人にとっての「愛してる」や「好きです」よりも、ずっと軽い気持ちで使える言葉なんじゃないかと思うのです。家族同士でも子どものころからあいさつと同じような感覚で使っていそうだし。日本人にとっては、「愛してる」はどうしても重い言葉です。それを考えると、I love youの訳語が「愛してる」じゃなくて「月が綺麗ですね」でも全然おかしくないのではないかと。

日本人には「告白」という重い儀式みたいなものがあって、それにどうしても違和感を感じたりもします。それはただ恋愛のハードルを無駄に高くしているだけなんじゃないかと。フィンランド在住の人に聞いた話ですが、フィンランド人はいわゆる「告白」みたいなものはしないそうですね。気が合う人と一緒にいたら、いつの間にか自然に付き合ってるみたいな感じなんだそうです。そういうほうがずっといい。

 

ここで、昔の永井真理子の歌の歌詞を思い出す。

 

 雑誌に出ている 恋はなんだか

 急ぎすぎているから つまらない

 おとぎの国の 恋人たちは

 好きだと告げることさえも しないよ

 

しかし現実には、もたもたしているうちにあっさり他の人にとられたりしてしまうわけで。

なんともやるせない世界です。

そして、ついフィクションや歌の世界にに真実を探してしまう。

斉藤和義も言っています。「本当のことは 歌の中にある」と。

 

 

しかし、なんだって私はこんなことを力説しているんでしょうか?

いいかげんハズイのでこのへんでやめときます。

 

一行の力

本に書かれた文章や歌詞の中で、たった一行か二行の言葉がなぜか忘れられないことがある。

 

中学だったか高校だったかの頃、夜眠りかけた後で目を覚まし、そのとき隣の部屋から聞こえていたテレビの音が「火曜サスペンス劇場」のエンディングテーマだった。火サスの初代エンディングテーマといえば有名な岩崎宏美の『聖母たちのララバイ』だが、その次のエンディングテーマ(これも岩崎宏美が歌っていた)を覚えている人はあまりいないだろうと思う。

 

 迷子の子猫を抱き上げた両手で 私を抱きしめて

 

うとうとしながら耳に入ってきたその歌詞が、なぜか深く印象に残り、いつまでも忘れられなかった。だからといって当時レコードを買うということも別になく、そのときはそのままほっておいた。当然曲名などもわからない。

そしていまこのネット時代。断片的なキーワードでたいていのことは調べられてしまう。なんとなくこの歌詞を思い出し、ついこの前、30年越しにその歌を聴いてみたくなり、ネットで調べた。曲のタイトルは『家路』。そしてiTunesではこれまた、たいていの古い曲は買えてしまう。そのまま検索し購入。そして30年ぶりに聴くことができた。大人になってあらためて聴くその歌詞には、また違う味わいがあった。

 

同じように、一度聴いて忘れられなくなった歌詞がもうひとつある。

 

 ああ 幸福(しあわせ)を1グラム あげましょう

 ああ 何もないけれど 手のひらの 上に乗せて

 

これは飯島真理の『1グラムの幸福』。「ワクワク動物ランド」というテレビ番組の二代目エンディングテーマだ。このさびの部分を聴いた瞬間、当時思春期まっただ中、情緒不安定に悩まされていた自分(かなり深刻だった)は、なぜかものすごく救われたのである。雪の中をえっちらおっちら歩いていく小動物(何の動物かはよくわからなかった)の映像とこのさびの歌詞が妙にマッチしていて好きだった。この曲は、その後二十代の頃にアルバムのCDで手に入れ、今でも大切に持っている。飯島真理の声はとても好きだ。

もういちどこのエンディングテーマを動画で見たいと思いYouTubeで何度か探してみたが、いまだどこからもアップされていないらしく、見ることができない。G4のCMですら見れるというのに。いや、G4というのは80年代の痔の薬なんですけど。

 

言葉というのは不思議なものである。言葉というパーツは基本的には万人に同じものだ。たまに造語を使ったり奇抜な言い回しをしたりすることはあっても、基本はみんな同じパーツとしての言葉を組み合わせ、同じ文法に従い、文章をつくる。そう考えると、それはレゴブロックとなんら変わるところがない。それがときに、人を動かすほどの力を持つ。

「文章は芸術ではないと思う」と言った人がいて、それもそうかもしれないと半ば認めながら、それでも、と僕は思う。文章によって感じられる「その人」の手触りというものが、たしかにある。言葉以上のものが言葉という入れ物に乗って伝わり、読んだ人、聞いた人にいろんなことを感じさせ、思わせ、行動させる。そして、これは僕がよく好んで使う表現だが、麻薬のように人を酔わせるのである。

それはやはり、まぎれもなく芸術なのではないか、と。