本と写真と珈琲が好き

書きたいこと、写真に残したいもの。思いつくまま、気の向くままに。

ナンセンス

意味のあることは大事だ。

自分のしたことがなにかいい結果をもたらした、とか

自分のしたことで誰かが喜んでくれた、という達成感。

うん、大事。

 

でもな

なーんか、疲れる。

最近、相当疲れている。

 

本当の自分は、無意味なことばっかりしていたい。

結果なんかどうでもいいことに、ただひたすら没頭していたい。

やっていることそのものが報酬であるような、何かがしたい。

 

たとえば、そうだなー。

今、銭湯に行って帰ってきた。

露天風呂で、お湯の気持ちよさにただひたすら身を任せて、ぼーっと長湯してた。

意味なんかない。ただ気持ちいいからそうしていただけ。

風呂に入るのは、じつは体がきれいになるかどうかなんて二の次だったりする。

 

読書もそう。

読んだ本の冊数なんて、どうでもいい。

読んだ本から得た知識の数なんて、どうでもいい。

ただただ、読んでいるときに味わう、なんともいえない心地よさと自由な感じが好きなだけ。

だから、ゆっくり読む。読みながらいつでも途中で止めて、物思いにふける。

脳が、内臓が、体全体が、喜んでいるのがわかる。ただし本と相性が合ったときだけ。

だから、再読でも再再読でもいい。

 

要するに「ためにする」ことが、あんまり好きじゃない。

 

カメラを買うときは、ただ買いたいから買うのだ。

それを使っていい写真を撮って、人を喜ばせようとか、お金を儲けようなんて、べつに考えちゃいない。

ただ買うというそのこと自体に、わくわくする。

 

ジーンズに狂っていたときも、ただ欲しいから買っていた。

何足あれば一週間着回せるとか、そんなの知ったことじゃない。

ただあの青さ、擦れ具合、生地の質感がたまらなく好きだっただけだ。

 

ジムに通いまくってたときも、ただあのスタジオの高揚感が好きだっただけ。

やせるとか、健康を維持するとか、べつにどうでもよかった。

実際、太ってもいなかったし、体は健康そのものだったし。

 

勉強でも、無意味なことがいちばん好きだった。

漢字を覚えるとか、字をうまく書くとか、板書した社会のノートを、ひたすらべつのノートに書き写すとか。

字なんて本来、読める程度にきれいに書ければいいんだよ。うまい必要なんか全然ない。

大学では、正直単位のことなんて考えたくなかった。

講義を聴いていると面白かったから、ただその時間さえあれば良かった。

テストなんかしてほしくなかった。

 

最近、無意味が足りない。

圧倒的に足りない。

 

子供のころは、やることすべてが無意味だった。

したいからする、したいからする、の連続。

周りすべてものから受ける、あのみずみずしい感覚。

あの感覚はもう、大人になってからは二度と取り戻せないのかなと、ときどき絶望的な気持ちになる。

最近、体調がすぐれないせいかな?

あらゆることが、なんの感情も巻き起こさずに、ただ体を過ぎていく感じがする。

 

坐禅は毎日している。

きっと、禅でいう「空」というのは、自分の考えている「無意味」に近いのだと思う。

でも、なかなかその感覚は取り戻せない。

 

東京にいた頃は、電車をわざと一本遅らせるのが好きだったな。

始発駅だったから、一本待てば座れるという理由もあったが、本当の理由は、ただ待つのが好きだったからだ。缶コーヒーを飲みながら次の電車を待つ時間が、まるで瞑想のように心地よくて好きだった。

 

コインランドリーでは、あの狭い空間で、洗濯と乾燥が終わるのをただ待っていた。

全然退屈じゃなかった。(取りにくる人は迷惑だっただろうなー)

ときどき文庫本を持って行って読んだりもしたけど。

 

コンパクトカメラを片手に、路地裏の雰囲気がいい町を、ただぶらぶら歩きたい。

気が向いたら好きなだけ立ち止まって、パシャパシャ写真を撮っていたい。

疲れたら、カフェに入って、本とコーヒーでのんびりしたい。

飽きるかな?毎日そんなことをしていたら。なんとなく、飽きない自信があるんだよな。

 

幕末の江戸は、無意味が究極まで発達していた社会だと思う。

日本人って、本来そういう無駄が大好きなんじゃないかね?

効率とは正反対のもの。

なんとなく、そういう血が流れている気がする。

そうやってやってるうちに、伊能忠敬みたいに、すんごい地図作っちゃうんだよ。

あれはたしか、隠居後の道楽だよね。

 

あーあ。

無意味が恋しい。

 

そもそも、このブログ自体が無意味。

読んでも、何の得にもならないね。