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本と写真と珈琲が好き

書きたいこと、写真に残したいもの。思いつくまま、気の向くままに。

ひからびたミミズに水をかけた話

ひさしぶりの更新である。

実はもうこのブログは凍結しようかと思っていた。やめたり再開したり、忙しいことである。

過去に書いたことが気に入らないからだが、そんなものは忘れて、どんどん更新していけばいいことだ。きっといつか、自分の安定したスタイルが見つかると思う。

 

そこで、今後の方針を考えた。

ブログだとモチベーションが湧かないので、まずはFacebookでまとまった文章を書いて(自分にはそれがいちばん抵抗がない)、それを逐一こちらにコピペするという方法だ。

Facebookだけでもいいのだが、それだとタイムラインの下の方にどんどん埋もれてしまうので、後から読みなおすのには都合が悪いのだ。続けられて、なお記録としてちゃんと機能する。このやり方がいちばんしっくり来そうな気がする。

 

そんなわけで、再開第一弾。

 

噴水に遊びに連れて行った姪が、ミミズが路上で干からびて死んでいるのを見て、お水をかけたら生き返るかもしれないと言う。もう死んでいるから無駄だと諭しても、どうしても水をかけたがるので、好きにさせてやることにした。噴水から水をすくってきてかけようとするが、それじゃうまく運べないので、持ってきたお茶をかけなさいと言った(お茶をもたせた母=ばぁばは、トクホのお茶だったのにと後でぼやいていたが)。
 
こういうとき、世の親御さんは子供にどういう態度を取るのだろう。だいたい二つのタイプに分かれると思う。気の済むまで子供にやらせる親と、強制的にやめさせる親と。僕は親ではないけれども、前者を支持する。
 
僕は相手が大人であるか子供であるかに関係なく、人が自由に伸びたい方向に伸びるのを手伝ってあげたいとつい思ってしまう人間だ。失敗するとわかっていても、あえて失敗させてあげたいと思う。なぜなら、他人がやったことは、自分がやったことではないからだ。おなじ結果を学ぶにしても、他人がやったことを聞くのと自分でやって実感するのとでは、意味も得るものもまったく違う。大人が子供の無駄な行為を遮ってやめさせたいと思うとき、そこにあるのは子供の成長を願う気持ちではなく、単に自分が面倒くさいという気持ちなんじゃないだろうか。
 
ミミズはやっぱり生き返りはしなかったけれども、一生懸命かけてあげる姿を見て、本当にミミズが動き出すんじゃないと半ば本気で思ってしまった。だいたい、干からびたミミズに水をかけても生き返らないと、実際にやって確かめた大人なんてどのくらいいるのだろう?それが常識だからという理由で判断しているだけじゃないだろうか?本当はいま信じている常識なんて、いつ覆るか分からない。子供の頃当たり前のように身分制度だと教わった江戸時代の士農工商だって、実は身分制度じゃなかったのだ。わからない人間の強みは、誰もやらないことをとにかくやって道を切り開いてしまう可能性があることだ。
 
・・・なんて小難しいことをそのときに全部考えたわけではない。ただ、ミミズを生き返らせてやりたいというやさしい気持ちに水を差したくはなかったのである。できることならそのまんま大人になって欲しいと思った、ただそれだけの話。
 

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