本と写真と珈琲が好き

書きたいこと、写真に残したいもの。思いつくまま、気の向くままに。

しむかっぷ山菜市

山菜市に誘われたのは、月1で参加しているモケラモケラの美術部でのことだ。主催がスローフード協会の支部だというから絶対に面白いだろうし、キャンプで行くという話にワクワクして、ほぼ二つ返事で行くことに決めた。

 

出発は5月30日。山菜市の本番は5月31日だが、その前日と前々日に山菜採りの体験というかボランティアがある。そちらにも参加したいということで、都合のつく者だけ前日の朝から出発した。

作戦会議で決めた待ち合わせ時間が、近所のローソンで9時だったか、鷹栖を出発するのが9時だったかうろ覚えで、どうやら後者だったらしく、結構待たされることになる。缶コーヒーでやり過ごしてもさらに時間が余り、再び店内で日刊ゲンダイを買って熟読してしまった。

 

そしてようやく出発。車は乗っけてもらうだけだから、あとは楽なものである。途中、富良野のすぎやま珈琲さんでコーヒーを売るための道具や材料を調達。すぎやま珈琲さんは毎年この山菜市に出店していたらしいのだが、今年は奥さんが出産間近ということで出ることができず、僕らが出店を代行することになっていたようである。まあ、コーヒーは家でよく落とすし、なんとかなるか。

 

占冠富良野を出てから1時間もかからない。割と身近な場所なんだと実感。

山菜採りボランティアの午後の集合時間は13時だったが、待ち合わせ場所で待っていても一向にやってこない。ひとり徳島から来た女性が待っていたので、しばらく立ち話、というか座り話。いろいろ経験豊富な方のようで、泉のようにいろんな話が湧き出てくる。

そうこうしているうちに、午前の山菜採り隊が帰ってくる。どうやら山菜を採った後そのまま外で食事をしていたようだ。

 

いったん建物の中に入り、あらためてみんなで自己紹介。老若男女、年齢の幅も広い。でもやはり、こういうところに来る人たちは面白い人が多そうだ。もうあとは採ってきた山菜の整理だけかと思っていたら、もう少しフキを調達してくるという。当然1度くらいは外に出たいので、そちらに加わることにした。

そして午後のフキ採りに出発。場所は、今夜の宿にもなる双民館という施設のそばの川原だ。道の駅の前の道路をまっすぐ行っただけだが10分くらい走ったのでけっこうな距離だ。この双民館は、古い校舎を改装したものらしい。

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川の両岸には、たくさんの立派なフキが生えていた。川はごく浅く、幅も狭く、本当に小川という感じだ。長靴があればひょいと渡れてしまう。残念ながら普通の靴だったので、倒木が渡されている上を綱渡りのようにバランスをとりながら渡らなければならなかった。

フキ採りなんか初めてだ。いちおうのレクチャーは受けたので、適当なフキを探してのろのろと切っていく。足場は悪い。採っているうちに、結構汗だくになった。おしりをなんだかよくわからない虫にでも刺されたらしい。大きく腫れ上がってめちゃめちゃ痒くて参った。楽しいかどうかは微妙だが、貴重な経験だと自分に言い聞かせる。しかし、さすがにいい場所なのだろう。太くて立派なフキがたくさん採れた。

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フキ採りの後は、道の駅に隣接する公民館の調理室で採って来た山菜の整理。男性陣は、フキを6本くらいずつの束に束ねていく。他の人は山菜の下ごしらえや、商品にするための瓶詰めなど。

そして、よもぎが少し足りないからもう1度採ってくるという話になった。中にいてもたいしたことはできそうもないし、そちらに同行することにした。

 

向かったのは、フキの場所とは反対方向。途中、道のちょうど真ん中あたりで、でくのぼうのように佇んでいるおじさんがいた。ちょっと変な人なのかと思ったら、その理由がすぐにわかった。足元に蛇が鎮座していたのである。この男性は、車にひかれないように蛇を守っていたのだろう。見かねたスローフードしむかっぷの山本さんが、車を脇に止めて駆け寄り、蛇をひょいとつかんで安全なところに放してきた。占冠ではこんなことが普通にあるのだろうか。旭川では絶対に見られない光景だ。午前の山菜採りでは、蛇を首に巻いてもらった人がいるとの話である。

 

そしてよもぎ採り。よもぎは本当にてっぺんのやわらかい部分だけを摘むのだと初めて知った。大勢で手分けして採っても、なかなか集まらないものだ。よもぎ餅なんてしょっちゅう食べるけど、そんなことも知らないのが現代人なんだなー。まあ、自分が知らなすぎるだけなのかもしれないが。

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帰った後は、それぞれみんな温泉に行ったり宿のお風呂に入ったり食事の準備をしたり。僕はギョウジャニンニクの瓶詰めをしたり、よもぎを刻んだりして調理場を手伝った。よもぎの切れないこと切れないこと。額から汗を流しながら苦行のようによもぎを切り刻む僕の姿を見てさすがに見かねたのか、山本さんが途中からすこし手伝ってくれた。おかげで、「苦行のようによもぎを刻む男」として山本さんの印象に残ったようだ。

 

準備が整い、待ちに待った夕食会。新得のそばに始まり、トマトソースのパスタや冷製パスタ、天ぷら、鹿肉まで。本当に美味しいものばかり。鹿肉なんか、ほとんど初めて食べたようなものである。臭いと言われている鹿肉をこんなに美味しく食べられたのは幸運というしかない。やはり、きちんと処理したものはちゃんと美味しいらしいのである。山わさびとの組み合わせは絶品だった。

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ここでも改めてみんなで自己紹介。集まった人たちは、スローフードフレンズ(スローフード協会北海道支部)の方たちや、NPO法人エゾロックのメンバーなど、錚々たるものである。道理で見たことのある顔も多い。そういえば調理のときみんなあまりにテキパキと動くので、きっと相当な古株なんだろうなと思っていたら、ここには初めて来たという人ばかりでびっくりしたのだった。

 

そしてすでに打ち上げのような様相を呈していたが、胃の弱い私は、苦しくなって早々に退散。となりの宿で寝ることにした。石けんもシャンプーもドライヤーも、箱ティッシュすらない、断捨離すぎる宿にちょっと閉口しながら。

 

 

 

あるがまま

Facebookより転載

 

今ふと思いついたのは、たいていの人は「ありのままの」言葉よりも「美しい」言葉が好きなんだろうな、ということ。


「ありのままの〜」なんて歌が流行ったとしても、人々が好きなのは「ありのままという美しい言葉」なのであって、本当のありのままが好きなわけではないのではないか。「ありのまま」は、ときにそれほど美しいわけではないからだ。


自分のタイムラインは、できることなら美しい言葉だけで飾っていたい、と多くの人が思っている。そうだと仮定すると、いろんなことに説明がつく。


ただ、実際にあったことを「なかったこと」にしてまでもそれを求めるとしたら…。そしてそれはいたるところで起こっているとしたら…。

小さく説くということ

まずは、『村上春樹雑文集』(村上春樹著)内に収録の「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」から少し引用する。

 

(以下引用)

小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。

なぜ小説家は多くを観察しなくてはならないのか?多くの正しい観察のないところに多くの正しい描写はありえないからだーーたとえ奄美の黒兎の観察を通してボウリング・ボールの描写をすることになるとしても。それでは、なぜわずかしか判断を下さないのか?最終的な判断を下すのは常に読者であって、作者ではないからだ。小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅力的なかたちにして読者にそっと(べつに暴力的にでもいいのだけど)手渡すことにある。

おそらくご存じだとは思うけれど、小説家が(面倒がって、あるいは単に自己顕示のために)その権利を読者に委ねることなく、自分であれこれものごとの判断を下し始めると、小説はまずつまらなくなる。深みがなくなり、言葉が自然な輝きを失い、物語がうまく動かなくなる。

良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ。

(引用終わり)

 

なぜこの文章が気になってしまったかといえば、自分の文章がまさに判断ばかりを繰り返している気がするからだ。僕は小説を書いているわけではないが、事実の描写を淡々と積み上げ、判断は読んでいる者に委ねるという書き方がもっとできるようになれればいいと思っている。そして、それがブログを始めた理由の一つでもある。きっと、自分が提示した問いに自分で答えることばかりしていれば、読む者はいつかうんざりしてしまうだろう。

観察するということを大事にしたい。文章を書くときも、写真を撮るときも、絵を描くときも。絵はまだ苦手意識が消えないが、いつか描けるようになるまであきらめたくない。

 

もう一つ別の本からも引用する。

ブレンダ・ウェランド『本当の自分を見つける文章術』(If You Want to Write)より。

 

(以下引用)

登場人物は読者の想像力の中ではじめて生命をもちます。だから、彼らがどんな風に見え、何をするかを客観的に、正確に書けばそれでいいのです。もし彼らが魅力的で愛すべき存在なら、それはおのずと表われます。読者はそれを信じます。もしファシズムは恐ろしいものだと言いたいとすれば、それを証明するような小説を書いてはなりません。そんなことをすればたちまち読者は感じ取ります。「登場人物は存在感がない。ただファシズムは恐ろしいということを押し付けようとして会話しているだけだ」と。

そのためなら、小説を書くより、ファシズムはなぜ恐ろしいかを正面から論じる誠実な論文を書いた方がはるかに効果的です。というのは、小説は(貧困なり道徳なりについて)問いは投げかけますが、答える必要はないからです。あなたが答えたとたん、読者はそこに嘘をかぎつけます。つまり何かを証明するために登場人物を使っているのだと考えるのです。

(引用終わり)

 

小説とは「小さく説く」もの。

小説を書きたいわけではないし、そもそも無理だとしても、小説を書くような気持ちで、誠実にていねいに文章をつむいでいけたらなと思う。

豆電球

雨竜にあるリサイクルショップ「豆電球」へ行ってきた。

 

雨竜は国道275号線沿いで深川より少し札幌寄り。旭川から行くと、車で1時間程度の町だ。雨竜といえば何が有名なんだろう。名前から思いつくのは雨竜沼湿原だけ。残念ながら行ったことはない。

自分の中では、雨竜といえば間違いなく「豆電球」だ。

 

普段リサイクルショップへ行くことなどほとんどないのだが、ここだけは遠出してでも行きたくなる場所。実際リサイクルショップというよりは、さながら大正・昭和博物館のようである。古いものがある程度集まるとそれ自体が引力を発生させて、さらに古いものがどんどん集まり、そういう現象が連鎖反応を起こしてこういうお店になったのではないか?僕はこのお店を見てそんな勝手な想像をしてしまう。

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お店の存在は、2年ほど前に、東川にある手芸工房ウエカラパの店主さんから聞いた。このウエカラパも素敵なお店である。どちらかというと女性向けのお店なのであまりいく機会はないのだが、古めかしいミシンを使用させてくれる面白いお店である。ミシンカフェという言い方があるのかどうかわからないが、そう言いたくなるお店だ。

 

そして1度豆電球を訪れて以来、すっかりここの雰囲気に魅了されてしまった。

 

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ここにはクラシックカメラがたくさん置いてある。フィルムは撮らないのだけど、昔のカメラは眺めているだけでまったく飽きない。時にはフィルム時代のオリンパスペンなんかもあったりする。価格もびっくりするほど高いわけではなく、ジャンク品でもないのに3000〜4000円で買えてしまうから、装飾用に買おうかとついつい考えてしまうのだ。いかんいかん、油断しては。

 

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ここのスペースはすこし高い座敷になっていて、ちゃぶ台や机などがあっていい雰囲気を醸し出しているのだが、これは改築中に屋根が壊れてしまい、修復したことでこういう形になったということをお店の奥さんが話してくれた。災い転じて福となす、である。

 

入り口から入ってすぐのスペースも相当広いのだが、この化粧室と書かれた扉の向こうが渡り廊下になっている。もう一棟建物があり、そこに続く廊下だ。

この建物、実は校舎を再利用している。この「化粧室」の札はリサイクルしているのかどうか定かではないが、他にも「職員室」「物品庫」などの札もあり、学校の雰囲気を多分に残している。

 

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廊下に出るとすぐ目に付くのが、古い振子時計と、ずらりと並ぶオロナミンCの古い看板だ。時間になると、時計はボーンボーンと味わい深い音を出す。体全体にに響くような、なんとも言えないいい音だ。

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廊下を抜けると別棟の建物につながる。最初の棟とだいたい同じ広さがある。初めて来た人は、この奥行きの広さに驚くだろう。

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楽器、ソロバン、スピーカーやアンプ、レコードなど、ほんとにさまざまなものが置いてある。うっかり見つけてしまった「まりもっこり」。これももう、昔のものになってしまったのか。

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再び廊下。この天井の木目は、迫力がありすぎる。

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鍵盤の奥の丸いスイッチのようなものが、何となく気に入った。

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これもいつもすごいなって思う。本当の車の上から鉄板を張り付けたんだろうか。

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これは、豆電球オリジナル商品。炎が揺らめくように光る電球は、なんとLED。こんなものまで出てきてしまったら、いよいよ電球の出番はなくなってしまうという気がする。

また、いたるところに、ランプ類も充実している店内。

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「なあに?」って見ているような感じが愛らしすぎて、思わずパシャリ。

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ひとしきり撮った後で、お店の奥さんが話しかけてくる。こちらはろくに買いもしないで申し訳ない気持ちでいるのだが、奥さんはこうやって写真を撮ってもらえることがとても嬉しく、またお客さんと話をするのが大好きなのだという。買っていった物をとてもセンスよく使っているのを報告してくれるのも嬉しくて、お断りをした上でディスプレイに反映させたりもするんだそうだ。旦那さんも感じのいい人で、口数は少なそうだが写真を撮らせてもらうことにまんざらでもなさそうだ。

 

ここはあまりにもたくさんのものがあり過ぎて、買い出したらそれこそきりがなさそうなのだが、どうしてもなかなか買う気になれないのは、すべてのものがそこに似合い過ぎていて、そこから動かしたくないからだ。ここに置いてある物たちは、中途半端に買っていかれるよりも絶対ここに置いてある方が幸せそうなのである。むしろ、入館料を取ってじっくり観てもらうほうがいいのかもしれない。

いや、でもやっぱりときどきは買いたいかな。

 

6月14日には、10周年を記念して店内で無料ライブがある。都合が合えば行きたいと思っている。たくさん撮らせてもらったお礼に、良く撮れたものを何枚かプリントしてプレゼントに持って行ってあげよう。

 

営業は冬をのぞく、土・日・月。夜6時まで。

雨竜近辺を通るときは、ぜひとも立ち寄ってもらいたい場所だ。

 

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「私は何もしていない」と言えるようになりたい

せっかくなので、引き続き『エブリデイ禅』から少し引用しようと思う。

222ページ「志と期待」より抜粋。

 

「私たちは、安らぎと満足を見出すために禅のような修行をしているのですが、何をしようとしているのでしょうか?人は日常的に、同じ習慣を繰り返していますが、自分の修行もその習慣の中に組み入れようとします。たとえば、『今度の接心では、いくつの公案をパスすることができるのだろうか』『私は彼女よりも長く座っているけど、彼女の方がもっと早く進歩しているように見えるわ』『昨日の坐禅はとても素晴らしかったが、今日もそうだといいけれど』と考えて、次々に目標を掲げ、それを追いかけていくという習癖は生涯、続いていきます。いずれにしても、修行に対する取り組みは、何かを達成するための闘いと、同一のものをベースにしています。それは仲間に認めてもらうことだったり、禅の世界で頭角を現すことだったり、安全な隠れ場を探すことだったりしますが、人はつねに同じことをしているのです」

 

「それぞれの瞬間は、あるがままで完全です。これを知れば、瞬間、瞬間に何が生じてこようが、起こるがままにしておくことができます。自分の今の瞬間はどうでしょうか?幸せを感じていますか?不安におののいていませんか?楽しんでいますか?失望していませんか?人生は紆余曲折ですが、それぞれの瞬間は、まさしくそれぞれの瞬間なのです。私たちの修行や志は、その瞬間と共に在ることであり、何であれ、『あるがまま』でいることです。もし恐れがあれば、ただその恐怖と共に在ることで、まさにその場で恐れはなくなるのです」

 

「私たちは何かを成し遂げるために、つねに必死でどこかへたどり着こうとしているので、誰かがただ立っているだけで何もしていないということを思いつくのはとても難しいのです。今のこの瞬間の外へ移動することはできないのに、人はたえずそうしようとしています。そして、禅の修行にも同じ態度を持ち込んでくるのです。『私は仏性が外のどこかにあるのを知っています。もし熱心に探し、熱心に座るならば、ゆくゆくはそれを見つけることができるはずだ!』と。けれども、仏性を知るためにはそれらをすべて捨て、完全に瞬間、瞬間に存在しなければならないのです。そうなれば、羊を探したり、友人を待っていたり、瞑想をしていたり、どんな活動に従事していようとも、人は何もすることなく、まさに「今・ここ」の瞬間にいるのです。修行をすれば心が静まり、智慧や素晴らしい悟りが得られるだろうと考えているならば、人はあるがままのそれぞれの瞬間が、絶対真理の表れであることを理解しないでしょう」

 

「私たちは、仕事が終わって疲れているときは疲れているブッダであり、坐禅をして足が痛んでいれば痛んでいるブッダであり、自分のある面を見て失望すれば失望しているブッダです。それでよいのです」

 

 

エブリデイ禅

毎朝坐禅をした後、読書をする。そのときに必ず一編ずつ読んでいる本がある。

シャーロット・浄光・ベック『エブリデイ禅』。アメリカで20年以上のロングセラーとなっている禅の本だ。この本は、『坐禅ガール』という小説を読んだときに、著者の田口ランディさんがすすめていたことで知った。税抜きで2800円。決して安い本ではない。

アメリカで出版された禅の本というのは、アメリカ人のライフスタイルに合わせてカスタマイズされたものが多く、だからこそ、生粋の日本禅よりも、むしろ現代の日本人にしっくりくるような気がする。この本は、今まで読んだ禅の本の中で一番自分に合うし、一番好きな本である。この本を読むことで、肩肘はって「悟ろう」なんていう気持ちはすっかりはがれ落ちてしまった。現在2回通読が終わって、3回目に入っている(だったか、ひょっとすると4回目だったかもしれない)。何度繰り返し読んでも飽きることはないだろう。

 

さて、いい本は読むたびに引用して誰かに教えたい部分が出てきて困っている。

いつかブックカフェができたらいいなと思っているのだが、その理由は、来てくれた人にある本の一節を読ませて、「こんないいことが書いてあるよ」「こんな言葉ってどう?」と相手に見せ、感動を共有したいためである。しかも、その人ならきっとこういう言葉が好きだろう思うものを慎重に選んで。

本当は本をプレゼントしてあげられれば一番いいのだが、いかんせん自分はそんなにお金持ちではないし、貸したら貸したでちゃんと返さない人がたまにいるので、不愉快な思いをしないために現在は基本的に本は貸さないことにしている。

 

本当は自分で文章を書くよりも、本からの引用を毎日していたいくらいだ。その方がよほどすばらしい言葉をたくさん伝えることができる。著作権というものがあるから、なかなかそうもできないのが不自由なところだけど。

で、今朝読んだ部分から、今日はひさしぶりに本の引用をしてみたいと思う。

 

(以下引用)

参禅者 どうして知っているのですか?

浄光 何を知っているということですか?

参禅者 これらのすべてを?

浄光 知っているとは言いません。何年も座っている経験からすれば、明らかです。それを信じろとは言いません。ここにいる誰にも、私が話していることを信じてほしくはありません。自分で経験を活かしてほしいのです。そして、自分にとって何が真実であるかを知ってほしいのです。ところで、私が話したことについての特別な質問とは何ですか?

参禅者 あなたの言ったことを信じようとしているということです。

浄光 でも、私はあなたに信じてほしいとは思いません。修行をしてほしいのです。私たちは自分の人生に取り組む科学者のようです。もし観察が鋭ければ、その実験が有効であったかどうかわかります。もし人生と取り組んで、上部構造が明るみに出されれば、そのとき自分自身を知ります。ある宗教は、ただ「信じなさい」と言います。信じることは、ここでしていることの重要な部分ではありません。誰も私を信じてほしくはないのです。しかし、修行にはあなたを傷つけるものは何もありませんし、私が言ったことで、あなたを害するものは何もありません。

(引用終わり)

 

宗教であれ、本であれ、セミナーであれ、何かを「信じなさい」と言ったり、あるいは暗にそうほのめかすものを、僕は絶対に信用しない。むしろ全速力で逃げ出す。何かを信じることが宗教なのだとしたら、僕は宗教というものを完全に否定したいと思う。そういう意味では、禅は厳密な意味での宗教ではないのではないかと思っている。

誰かカリスマのような存在を持つのは、成熟していない段階で一時的に必要とするのはいい。しかし、いずれ卒業しなくてはならないものだと思っている。

 

読書もそう。ある本やある著者に全面的に自分をあずけるような読み方は危険だと思っている。だから、なるべくいろいろなジャンルの、いろいろな人の、いろいろな形式の本を意識的に読むのがいいと思っている。

 

僕がここで書いていることだって、誰かに信じてほしいとは思っていない。あくまでひとつのバカなサンプルである。なにせ書いた本人が、書いた先から「それはちょっとどうなんだ?」と疑っているようなことばかりなのだから。

 

というようなことも、最近よく感じることの一つである。

 

「嫌われる勇気」のある人を嫌うのはかまわないよね?

心屋仁之助という人が、どおーも嫌いです。

 

根拠を示せって言われると困るんですけど、なんとなく直観でね。
しかし、好きって言う人はかなり多いみたいなので、自分だけこういうこと言うのはちょっとためらいがあるんですけど。

 

何がいや?あの言葉遣いですね。
極端(あるいは乱暴)なものの言い方をして受けを狙うのは、どうもあの橋下市長とダブって見えてしまう。ああいう人って嫌われる反面、熱烈な信者も多かったりしますよね。ズバッとわかりやすいことを言ってくれる人になびいてしまう人はけっこう多くて、郵政民営化選挙であまりよく考えずに小泉に投票してしまう。あるいは大阪都構想に賛成してしまう。

 

まあ、人に嫌われてでも好きなことをしろと言っている人だから、僕が心屋さんを嫌いだと言ったところできっと許してくれるでしょう。理屈上では。
でも、これも直観ですけど、あの人はきっとそれには納得しなくて、それはあなたにこれこれこういう問題があるからだ、と反論してきそうな気がします。

 

まあ、ひとつだけ言わしてもらうなら、仮にもお金を頂いて相談を受けたりしている人が、人に向かって「しらんがな」はないですね。真摯さを感じません。人をこき下ろして狙う笑いは好きじゃありません。

 

あと、あのブログの、やたらと行間をあけたり、ワンフレーズを多用するような文章の書き方って、生理的に受け付けないのです。なんか読む人の知的レベルを低く見積もっているみたいで。

 

なんにせよ、ああいうカリスマ性を帯びた人を僕は警戒しますね。

マルチ臭いっていう思いも消えない。(「心屋塾」とかね)

 

というのは、あくまで僕の個人的な思いです。それでも好きだと言う人を否定する気は毛頭ありません。反論されてもコメントを返す気はありませんので、あしからず。